早川の氾濫 ~卯年の満水と越の山崩れ~
江戸時代の延享4(1747)年8月19日(旧暦)に発生したいわゆる「卯年の満水」は北陸地方に甚大な水害をもたらしたことで知られます。糸魚川市内も各地で水害(川欠)が発生し、その被災状況は『糸魚川市史4巻』(1979)に詳述されています。

早川の氾濫 ~卯年の満水と越の山崩れ~
江戸時代の延享4(1747)年8月19日(旧暦)に発生したいわゆる「卯年の満水」は北陸地方に甚大な水害をもたらしたことで知られます。糸魚川市内も各地で水害(川欠)が発生し、その被災状況は『糸魚川市史4巻』(1979)に詳述されています。
早川の氾濫 ~法円寺の川欠~
想定を超える豪雨に悩まされる昨今ですが、江戸時代にも降り続く大雨により早川の氾濫は度々あったようです。早川谷の大肝煎であった斉藤家(伴家)も領主の高田藩に被害を報告しなければならないことから「伴是福家文書」にはそうした報告の下書きなどを散見できます。
絵図に描かれた中川原新田と湯川内
何度か紹介したとおり大肝煎の斉藤仁左衛門(伴家)は中川原台地の新田開発を成し遂げたことから、「伴是福家文書」には中川原台地を記した絵図を数多く確認できます。