上早川の歴史と伝説 その72

金山城の館 ~立ノ内遺跡~

前回紹介した金山城跡の城主館と思われる痕跡は、北陸自動車道の建設に伴った新潟県教育委員会による発掘調査で、田屋字立ノ内地内(姥川を挟んで城跡の東方約700m、標高は約25m前後)で確認されています。

発掘調査によって、図のように26棟の建物跡が検出され、出土した土器や陶磁器の年代から、建物の大半は16世紀代に廃棄されています。建物跡は西側と東側に集中し、東側には桁行9間、梁間1間で庇が付く細長い建物跡・SB38を確認でき、桁行4・5間、梁間2間で張り出しをもつ建物跡2棟がこれに並んでいます。その形状などから、細長い建物跡は馬屋、その東に並ぶ建物跡は母屋なのかもしれません。西側の建物群は東側の建物群に比べるとやや小規模で、建物の軸もやや西に偏っていることから、東側と西側の建物跡には時間差があるのかもしれません。

いずれにしても道路幅の調査のため遺跡全体の建物配置などは確認できませんでしたが、建物跡の規模、形状、年代などから金山城跡の館跡であることは間違いないようです。山城の位置や郭の配置から、館は田伏側にあるのではと考えられていたことから、早川側での館の確認は意外でしたが、不動山城との位置関係を考慮すると納得の位置であるのかもしれません。

また、この立ノ内遺跡で確認できた建物の柱穴は火砕流堆積物を掘り込んでおり、この館跡が焼山の大規模噴火後に構築されたことを物語っています。残念ながら金山城の城主はもちろん館の主もこの発掘調査では確認できませんでしたが、この一帯に不動山城主である山本寺氏を支える勢力が存在したことは確かなようです。(木島)

ほこんたけ通信20230310(第166号)より