上早川の歴史と伝説 その70

~卯年の満水による集落移転~

延享四(1747)年八月の「卯年の満水」が早川流域に甚大な被害をもたらしたことは、これまでも紹介してきました。ここで、紹介するのはこの満水は単なる河川の氾濫だけでなく上早川の景観が一変したことを証する絵図です。

伴是福家文書所収絵図ー前川右岸に描かれた大平・土倉・岩倉・猪平

写真の絵図はこれまでの絵図同様の伴是福家文書に所収されるもので、以前に紹介した中川原新田を描いた絵図の一部です。これによると寒谷、大平、岩倉、土倉、猪平は前川右岸に描かれています。現在の各集落が営まれているのは中川原台地であり、この絵図とは大きく異なります。つまり、これらの集落は、写真の絵図が描かれた以降に中川原台地に移転したことになり、なぜ集落を移転したのでしょうか。この経緯を窺わせるのが、これまでに何度か取り上げた「林蔵文庫」の写本です。

この写本は現存しませんが、『糸魚川市史4巻』(1979)第8編1項「川々満水」では、この写本を引用して早川流域の被害を詳述しています。「……湯川満水・山崩れ、谷を埋め水を留め、……猪平谷入山崩れ、麻畑残らず土の下になる。土倉川満水、家拾弐間(軒)、土蔵一つ流失し、破損家五軒なり、この節、中川原へ屋敷を替える。岩倉村上ほこがたけの内、小滝と申す所石山崩れ、村方へ押し出す。……この節、宮向または中川原へ屋敷を替える。……大平村この時、屋敷ゆるぎ申し候間、中川原へ替わる。……」

これによると、延享四(1747)年八月十九日の洪水によって湯川(前川)やその支流の氾濫あるいは山崩れによって猪平、土倉、岩倉、大平の村々が中川原台地に村を移したとあります。なお、省略箇所には避難した家屋が土砂に飲まれ、多くの人命が失われたなどの悲惨な状況が詳述されています。各集落の神社が前川の右岸の高台にあるのはこの卯年の満水以前の村の名残といえるようです。

ほこんたけ通信20221210(第161号)より