金山城の館 ~立ノ内遺跡~
前回紹介した金山城跡の城主館と思われる痕跡は、北陸自動車道の建設に伴った新潟県教育委員会による発掘調査で、田屋字立ノ内地内(姥川を挟んで城跡の東方約700m、標高は約25m前後)で確認されています。

金山城の館 ~立ノ内遺跡~
前回紹介した金山城跡の城主館と思われる痕跡は、北陸自動車道の建設に伴った新潟県教育委員会による発掘調査で、田屋字立ノ内地内(姥川を挟んで城跡の東方約700m、標高は約25m前後)で確認されています。

~雪景色の金山城跡~
戦国期に早川流域を支配した山本寺氏の居城である不動山城の本丸からは早川谷はもちろん姫川流域から親不知方面を遠望できます。しかし、能生・直江津方面は海岸まで迫る山並みに遮られます。そこで、重要なのが田屋集落西方の尾根に築かれた金山城であったようです。

~卯年の満水による集落移転~
延享四(1747)年八月の「卯年の満水」が早川流域に甚大な被害をもたらしたことは、これまでも紹介してきました。ここで、紹介するのはこの満水は単なる河川の氾濫だけでなく上早川の景観が一変したことを証する絵図です。

~左右に暴れる早川の流れ~
現在の早川と前川(湯川)は中林付近で合流していますが、『西頚城郡誌』(1930)では五十原付近で合流していたとしています。また、「歴史と伝説」のその67・68で紹介した絵図には不安定な早川の流れと川欠の痕跡が描かれていました。

早川の氾濫 ~卯年の満水と越の山崩れ~
江戸時代の延享4(1747)年8月19日(旧暦)に発生したいわゆる「卯年の満水」は北陸地方に甚大な水害をもたらしたことで知られます。糸魚川市内も各地で水害(川欠)が発生し、その被災状況は『糸魚川市史4巻』(1979)に詳述されています。
