上早川の歴史と伝説 その68

早川の氾濫 ~卯年の満水と越の山崩れ~

江戸時代の延享4(1747)年8月19日(旧暦)に発生したいわゆる「卯年の満水」は北陸地方に甚大な水害をもたらしたことで知られます。糸魚川市内も各地で水害(川欠)が発生し、その被災状況は『糸魚川市史4巻』(1979)に詳述されています。

越村の川欠絵図(延享四年卯八月)

この早川の「卯年の満水」の川欠は砂場にかつて所在した「林蔵文書」に記録があり、前述の市史ではこれを引用しています。それによると、19日の夕方より雨、風が酷くなり、小石が飛ぶような強風が吹き荒れ、雷も轟き、夜になると地震も連発したそうです。そして、川欠はもちろん山は崩れ、その土砂が川を堰き止め、それが決壊して田畑はもちろん流された家屋も多く、早川流域は大災害に見舞われたとあります。

写真は「伴是福家文書」所収の絵図で、不動山の麓に点在する越村の山崩れ(薄茶色で表示)と早川の氾濫の様子が描かれています。絵図の裏には「延享四年卯八月」とあるので、この「卯年の満水」の被害状況図のようです。少なくとも4箇所で山が崩れ、川欠によって麓の田畑が被災した状況が描かれています。本来の早川の流れも描かれていることから、この氾濫で河道が大きく変わってしまったようで、早川谷の「卯年の満水」の凄まじさを如実に物語っています。

この時の川欠は越村だけでなく、早川上流域でも酷く、移転を余儀なくされた村もあったようです。不動山の麓は現在でも山崩れが頻発する地滑り地帯であり、不動山城を支えた越村そして早川を支配した大肝煎の伴(斉藤)家もこうした度重なる水害と山崩れによって在所を離れることになってしまったようです。(木島)

ほこんたけ通信20221010(第157号)より