上早川の歴史と伝説 その78

前回は谷根一帯の巨礫群の形成過程を探ってみました。これらの成因は約300万年前のフォッサマグナ帯の隆起から始まり、人類が日本列島に渡った10万年前には現在のような地形が形成されていたようです。

遺跡位置図 1林中遺跡 2細池遺跡 3上出遺跡

ところで、早川谷に人が住み始めたのはいつ頃なのでしょうか。 糸魚川市内で最も古い人類の痕跡は、大和川(中原遺跡)と一ノ宮(大塚遺跡)で確認されています。両遺跡では北陸自動車道の建設に伴う発掘調査において旧石器時代終末期(約2万年前)の黒曜石製の槍先(ナイフ形石器)が出土しています。しかし、残念ながら早川谷にそこまで遡れる遺跡や遺物は確認できません。

早川谷は確認できる遺跡が少なく、昭和50(1975)年の新潟県遺跡分布図では日光寺・上出付近に3箇所、角間で1箇所の縄文時代の遺跡を確認できます。位置図の1は縄文時代前期の林中遺跡、2・3は縄文時代晩期の細池遺跡と上出遺跡、角間の清水平遺跡では時期不明ながら縄文土器の破片が採集されています。つまり、早川谷で最も古い人類の痕跡は位置図1の上出の林中遺跡となり、縄文時代前期(約65005,500年前)まで遡れることになります。この遺跡は、月不見の池西側の巨礫の岩陰にあり、縄文土器の破片などが採集されているようです。この他に要害で黒曜石の剥片、五十原でも磨製石斧などが採集されていることから、他にも縄文時代の遺跡があったのかもしれません。

縄文時代後期の約3,500年前頃に焼山が大噴火を起こし、その火砕流と泥流は早川谷の縄文集落に大打撃を与え、壊滅状態になったようです。しかし、縄文時代晩期の約3,000年前には日光寺・滝川原の台地に集落が営まれるようになりました。それが細池遺跡、上出遺跡であり、なかでも細池遺跡は発掘調査で住居跡や墓跡なども確認され、滑石や翡翠を用いた装身具や蛇紋岩などを用いた石斧を専業的に製作した痕跡が確認されています。縄文時代前期より古い遺跡は確認できませんが、火山災害に見舞われながらもそれを乗り越えた縄文人達が存在したことは確かであり、その背景には早川谷の豊かな自然の恵みがあったのでしょう。(木島)