上早川の歴史と伝説 その61

早川谷と伴家 その2

早川谷を管轄した斉藤(伴)家を紹介する前に、糸魚川の複雑な支配を理解しておく必要があります。

乱世も終わりつつある慶長3(1598)年、上杉景勝の会津移封に伴い不動山城主の山本寺氏もこれ同行しました。そして、秀吉は腹心の堀秀治を春日山城主に据え、その一族である堀清繁は慶長6(1601)年に清崎城を築いて糸魚川を支配したようです。

さらに、江戸幕府になると、徳川家の親族や譜代の家臣が二十数万石の高田藩の藩主を代々務めるようになります。これは外様の加賀藩に近く佐渡金銀の運搬路にあたる地理環境と肥沃な高田平野の石高を期待したことによるようです。一方、高田藩の家老は清崎城の城代を務めて糸魚川を支配していました。しかし、高田藩主の松平光長の死去によって突発した世継ぎ争い(越後騒動)が幕府の知るところとなり、清崎城代を兼ねた家老、荻田らは流刑、清崎城も廃城とする第5代将軍綱吉の裁定が下されました。これにより清崎城は延宝9(1681)年に新発田藩によって取り壊され、更地となった城跡は周辺の村々に払い下げられたのです。糸魚川は幕府領(5万石)となり、加賀街道沿いの横町に陣屋を構えて統治されました。

その後、享保2(1717)年に福井藩松平家の系譜である松平直之に糸魚川の1万2千石の領地が与えられたことから、当地は糸魚川藩、幕府(天領)、高田藩、伊勢神宮などに分割されたのです。恐らく、その背景には外様である加賀藩の監視と加賀と高田の大藩の隣接を避ける狙いがあったようです。

早川谷も糸魚川藩、高田藩、幕府に分割され、後に田沼藩もこれに加わりました。斉藤(伴)家は高田藩領と幕府領を管轄する大肝煎となり、その居住する越村の支配も表のように変遷したことが古文書から解ります。早川の西側と東側だけではなく隣村の領主が異なることから、境界や災害復旧はもちろん新田開発や水利権などをめぐっての訴訟の頻発につながることになったのです。(木島)

ほこんたけ通信20220210(第141号)より