上早川の歴史と伝説 その66

絵図に描かれた中川原新田と湯川内

何度か紹介したとおり大肝煎の斉藤仁左衛門(伴家)は中川原台地の新田開発を成し遂げたことから、「伴是福家文書」には中川原台地を記した絵図を数多く確認できます。

伴是福家文書の絵図に描かれた中川原新田と湯川内

ここに示した絵図2点は、中川原新田とその周辺の村々を描いた絵図の一部です。どちらも作成年は不明ながら、中川原用水と推される台地を縦断する用水が描かれ、中川原新田に家屋が立ち並んでいることから新田開発が成し遂げられた江戸中期以降の様子であることは間違いないようです。さらに、前川から取水した用水も描かれ、「大平村」と「土倉村」はもちろん大平村枝村をされる「寒谷」、「岩倉」、「井ノ平」といった集落が前川の右岸、大平村枝村の「湯川内」は台地の南部、早川の左岸には「笹倉新田」が描かれています。つまり、現在の中川原台地に営まれている集落の多くは鉾ケ岳の麓である前川右岸に営まれていたことを示しています。

絵図の中央に描かれた中川原新田に注目すると、左の絵図には4軒の建物、右には9棟の建物を確認できます。恐らく、4軒で入植し次第に戸数を増やして9棟になったことを物語っているのでしょう。また、湯川内と中川原新田の間には「馬木戸」との記載もあり、新田開発以前は馬の放牧場であったとされる古文書の記載と一致します。

いずれにしても、江戸時代の集落と現在の集落が大きく異なることは確かで、より適した稲作の耕地を中川原台地に求め、集落そのものを移すことになったのです。台地の新田開発とその台地を潤す中川原用水が現在の上早川の景観を創り出したのです。(木島)

ほこんたけ通信20220810(第153号)より