上早川の歴史と伝説 その62

江戸時代の山争い(伴是福家文書より)

早川谷で大肝煎を代々務めた伴(斉藤)家の古文書には土地争いに関わるものを数多く確認できます。ここで紹介するのは、早川支流の西尾野川流域のアケビ平一帯の山争いの経緯を証するもので、江戸時代における山や入会地の重要性あるいは境界裁定のあり方などが良く解ります。

「猿倉村百姓等申状」
糸魚川歴史民俗資料館蔵・伴是福家文書

写真の古文書は糸魚川歴史民俗資料館で公開された「猿倉村百姓等申状」です。これは『糸魚川市史資料編』などにも取り上げられ、この紙上でも土塩村と砂場村の山争いとして紹介したことがあります。

これは「吹原・猿倉・坪野・土塩の四ヶ村が前々から利用してきた山で木材を採取していたところ土塩村がこれを差し押さえてしまって、たいへん迷惑しているので何とかして欲しい」とした高田藩への訴状です。さらに、この山はかつて砂場・北山村との境界をめぐって高田藩の裁定が下ったこと、あるいは熊野神社のお札を焼いて、争いのある土地の土に混ぜて関係者12人がそれを飲み、日光寺観音堂に7日間籠ってその反応で境界を決めるとした裁定が行われたことなども記されています。

残念ながら、土塩村の暴挙の背景などは解りませんが、村から遠く離れた深山における入会地での材木の調達が村の経営に重要であったことを物語っています。さらに、非科学的ながらも体を張った裁定のあり方などは土地への強い執着を示しています。

土地の所有権が明確で様々な生活物資が容易に調達できる現代、このような事件、訴状、裁定などはあり得ません。しかし、石油や化学肥料が無かった昭和初期までは、山で得られる材木、薪、草などは重要な生活物資であり、その調達は村の存亡に関わる重要事項であったようです。(木島)

ほこんたけ通信20220310(第143号)より