~日光寺・白山神社の舞楽・陵王の舞?~
例年、4月18日は早川谷の多くの集落で春祭りが行われます。なかでも、神輿のぶつけ合いが行われる日光寺の祭りは、早川谷を代表する伝統行事です。神輿のぶつけ合いといえば天津神社の「けんか祭り」が知られていますが、血気盛んな神輿のぶつけ合いの後には12曲の優雅な舞楽が奉納されます。また、能生の白山神社でも稚児舞などから成る舞楽が奉納され、いずれの舞楽も国の民俗文化財に指定されています。
この能生の白山神社は多くの文化財を所有することで知られ、写真の舞楽面は新潟県の指定文化財でもあります。興味深いのは、左から2番目の陵王の面の裏には次のような朱書きを確認できることです。
「阿弥陀山 日光寺 寛正六天乙酉 大工国重 良弥 賢瑜」 寛正六(1465)年に日光寺の良弥と賢瑜がスポンサーになって国重という面師が作ったようです。この面が能生の白山神社に伝わった経緯は不明ですが、かつては日光寺の別当である白山神社(日光寺)でも陵王の舞が奉納されていたようです。
中世以来、各地の古刹では舞楽などの奉納が盛んで、その多くは京都や大阪などから伝わったようです。煌びやかな衣装をまとい毎年の舞楽の奉納には経済的負担も伴うことから、祭りの開催には多大な出費を要し、檀家・氏子はもちろん財力のある家が多くを負担して継続していたようです。
恐らく、日光寺と白山神社の檀家・氏子はもちろん、その門前にあたる新町の隆盛を担った家々が相当の負担を担っていたことでしょう。さらに、早川谷の領主である不動山城主の山本寺家も城下の祭りに大いに関わっていたことは容易に想定できることから、上杉家の会津移封に伴った山本寺家とその有力家臣がこの地を離れたことと舞楽の奉納は無関係ではなかったと推察できます。農地が少ない当地において中世から近世で隆盛を誇ったのは日本海の海運を担った船主などで、江戸前期は能生の岡本家が全盛を極めたことから、財力の豊かな能生へ舞楽面が引き継がれたのでしょうか。(木島)
ほこんたけ通信20230510(第170号)より