~不動山城の立地~
上早川地区の歴史を語るうえで欠かせないのは焼山の噴火史と不動山城跡です。要害の不動山城については以前にも若干紹介しましたが、その歴史などを数回にわたって掘り下げてみたいと思います。今回はその立地について探ってみます。
鎌倉・室町・戦国時代の城の大半は険しい山の山頂から山麓にかけて築かれた「山城(やまじろ)」です。山頂は「本丸」などと呼ばれますが、いわゆる天守閣は無く、木の柵で囲ったいわゆる砦です。領主・城主はその麓に館を構え、直属の家臣がその周辺に居を構えて城下を形成していました。越後上杉氏の居城である春日山城跡(上越市)などはその典型といえます。
不動山城は急流早川の中流右岸の独立峰の山頂一帯に築かれ、本丸とされる山頂からは早川谷を一望できるばかりか、親不知の勝山城、根知谷の根知城を遠望でき、早川対岸の田伏金山城を眼下におさめます。さらに、東方の木浦・浦本の山々は切り立つ深い谷が幾重にも入り、南方は火打山や活火山焼山が聳えています。まさに天然の要害といえ、早川谷の支配にはこれ以上の好地は無く、万全な守りともいえます。
春日山城以西の山城の立地と分布を概観すると、越中方面の異変は勝山城から、信州方面(仁科口)は根地城から不動山城に狼煙で知らされ、徳合城、名立城とリレーされ春日山城へ伝えられたことでしょう。敵対する勢力の情報を越後上杉氏に中継する重要な位置にあったことは確かなようです。さらに、能登半島、富山湾も一望できることから沖合の往来も把握できる位置にあり、陸路だけではなく海からの進軍や物資輸送の監視もできる絶好地であったと想定できます。
広大で肥沃な領地と米や青苧などの交易で構築した豊かな経済力を背景とした越後上杉氏にとって、不動山城は西方の守りと越中・能登方面への進軍、さらには安定した交易の継続に欠かせない重要な戦略ポイントであったことは間違いないようです。(木島)
ほこんたけ通信20210410(第122号)より