上早川の歴史と伝説 その54

不動山城跡 ~麓の寺院~

前回紹介しました「曲輪」、「切岸」、「竪堀」などは山城の基本的な防御といえ、その規模は異なりますが、上杉長尾氏の居城である春日山城跡(上越市)でも随所に遺っています。もちろん、こうした城の構えは領主(城主)の軍事力や経済力を隣国や領民に誇示するものでもありました。一方、山城やその城下には多くの寺院が建立され、春日山城の麓に建つ林泉寺などはその典型といえます。

不動山城の麓から西海に移った曹洞宗・龍雲山耕文寺

それでは、不動山城の周辺にはどのような寺院が存在したのでしょうか。西海の坂井にある曹洞宗の龍雲山耕文寺は明応三(1494)年三月に不動山城主山本寺氏によって城の麓に建立され、後年に現在地に移っています。また、この耕文寺の二代和尚・大盛が関わって大永二(1523)年に開山した上覚の曹洞宗・月波山普済寺は不動山城主山本寺氏代々の菩提所と称しています。東海の真言宗唯心寺も城主の招きによって東塚から現在地に移ったとされ、新町の大蓮寺は江戸時代の元和三(1617)年の開基とされますが、山本寺氏と関わりが深いとされています。また、不動山の中腹には「法泉寺」なる小字があり、天文十三(1544)年に開基した島倉山法泉寺の古跡とされます。この法泉寺は上杉氏の移封に伴って会津に移りましたが、『糸魚川市史1』を執筆した青木重孝氏は会津から能生百川に還住し、明治になって東海に移ったとしています。

領内の平穏・繁栄を願う高い知識を有する領主であることをアピールするには寺院の建立が必須であったようです。領主の多くはこうした寺院で幼少期を過ごし、高い知識を習得しています。もちろん、領民の精神的な拠り所でもあったことでしょう。寺院を焼き払い僧侶と対峙することは相当な覚悟を要したものと想定されることから、城の麓に建立された寺院は城の守りとしても効果的であったようです。(木島)

ほこんたけ通信20210610(第126号)より