~「早川入江」伝説を探る~ まとめ
これまで数回に渡って「早川入江」伝説を取り上げ、人類の有史以降において早川谷に海が入り込んだ事実は無く、全くの創作であることに言及してきました。ここでは、そのまとめをしておきます。 この伝説は、「往古早川谷之絵図」と「貝塚の貝」、「土塩・東海」などの地名が合体してあたかも史実であるかのように広まり、『上早川村勢要覧』(1952)にも掲載、学校でも教えられ、家庭では祖父母から孫に伝えられました。

(『北越風土記節解』丸山元純)
しかし、「貝塚の貝」とされたのは千万年前の貝化石であり人類史の遥か以前であること、「塩」や「海」が付く地名が必ずしも海に関係するとは限らないことを紹介しました。さらに、この絵図は集落や寺社の記載が不自然で、早川右岸の京田村(現在の越・宮平・中野・中林・坪野)と佐多神社(現在の剣神社)の由緒を誇示する意図が読み取れるのです。

また、江戸後期に長岡の医者丸山元純が著した『北越風土記節解』にも西浜七谷が入江状に描かれた「大彦命降臨時の国図」が掲載されていることから、「往古早川谷之絵図」の創作に大きな影響を与えたようです。西頚城郡教育会編集・刊行の『西頚城郡誌』(1930)でもこの「大彦命降臨時の国図」を信じた「海抜二百尺の所まで往時の海面なりとせば、青海湾は黒姫山麓に至る。根知湾は大野附近に至る。西海湾は田中、井澤附近に至る。早川湾は瀧川原、新町邊に至る。」とした記載があることから、明治~昭和初期の頃にはこうした理解が一般的であったのかもしれません。仮に早川谷が200尺(約60m)まで海であったとすると、市内に立地する古代遺跡の大半は海の底になってしまうのです。

もちろん、頻発する諸災害もこうした想像に拍車をかけたようです。特に、焼山の噴火災害による土砂流出あるいは豪雨・地震等による土石流・山崩れによる大量の土砂流出などは入江を埋め立てたと想像するに充分であったことでしょう。(木)
ほこんたけ通信20241110(第205号)より

