郷土讀本(S15.11.10発行)より

霊場八十八ヶ所を一巡した私達は月不見の池へ出た。池は北陸線梶屋敷驛より南方五粁の處にある。

周圍約六百米、南北に稍々長く五六十米の絶壁をなして居り、その周圍には突兀と聳ゆる巨岩が屏風の様に立つてゐる。大樹巨木の繁茂する季節には晝も尚暗い位で、月の明い夜でさへ池面に其の影を映さないと云ふので昔から「月不見の池」と呼ばれてゐる。 融雪期四月から五月初旬迄は綺麗に澄んだ水が池一ぱいに漲ってごこまでも冷かで而もやや暗い靑さをたたへてゐる。特に絶壁をなして居る大立岩小立岩の下は不気味な淵をよどませてゐる。

池の周圍の岩山は水際から樹木が繁茂して全山の趣がすべて自然の姿である。それがとても美しい。この岩山によくもこれだけの木が生ひ茂ったものだと思はれた。叔父は幼い頃の思出を語ってくれた。

池の中央巨岩の上に辨財天を祀る小さい祠がある。ここに石の太鼓橋がかかつてゐる。この橋の傍に茶屋があつてボートなど用意して遊客の便利をはかつて居る。名物の藤の花が今を盛りと紫の房を長く垂れてゐる。優美なその姿を眺めてゐると何だか他境に遊んでゐる様な氣がしてならない。叔父の話では藤の花も昔に比べるとずつと少くなったといふことである。さつきから居た二三組の小學校の遠足隊がそろそろ帰り支度を始めた。叔父は辨財天の水影を眺めて動かうともしない。