上早川の歴史と伝説 その89

「往古早川谷之絵図」創作の背景

これまで紹介したように早川谷に伝わる「往古早川谷之絵図」は想像図であり、史実とはかけ離れています。その創作は「宮平剣神社の神官某」であると推測しましたが、なぜこのように想像したのでしょうか。また、なぜこのような絵図が『上早川村勢要覧』(上早川村役場1952)に添付され、実しやかに広まったのでしょうか。

西尾野川で採集された貝化石(フォッサマグナミュージアム所蔵)

『上早川村勢要覧』では「東海」、「土塩」など「海」や「塩」が付く地名あるいは「貝塚の貝」の出土がかつて入江であったことを裏付けるとしています。しかし、これは正しいのでしょうか。早川谷周辺にはこの他にも「西海」、「海谷」、「来海沢」、「指塩」などの地名がありますが、「海」には「広い所」といった意味もあり、「塩」の付く地名が最も多いのは海の無い長野県です。このことから、「海」や「塩」のつく地名をかつて海であったことと関連付けることには無理があります。

一方、北山発電所建設に伴って出土したとされる「貝塚の貝」はどうでしょうか。「貝塚」は縄文時代の海岸近くに営まれた集落で形成されたもので、糸魚川市には貝塚は存在しません。この貝は「貝塚」ではなく、「貝化石」ではないでしょうか。早川右岸の農道工事や西尾野川などではフォッサマグナが海であった頃の貝化石が採集されていることから、これを貝塚の貝と誤認したようです。縄文時代であれば約5,000年前ですが写真の貝化石(ホタテガイ類イタヤカガイ科)は中新世中期から後期の地層(1,600~750万年前)ですから、人類誕生の遥か以前のことになります。

「海」や「塩」などの地名あるいは「貝化石」を江戸時代の知識人は「昔は海であったに違いない」と想像したのではないでしょうか。さらに、焼山の火砕流や土石流あるいは度重なる豪雨による災害などの経験は、「入江を埋め立てても不思議ではない」と想わせるに充分です。(木島)