~「早川入江」伝説を探る~ その4
「往古早川谷之絵図」は誰が描いたのか?
「早川が入江になっていた」とする伝説の根拠となったこの「往古早川谷之絵図」はいったい誰が描いたのでしょうか。

『上早川村勢要覧』(上早川村役場1952)に添付された絵図は「谷根村樋口八郎右エ門所蔵」の実物の10分1写しとある。また、『西頚城郡誌』(西頚城郡教育会1930)には「下早川村大字五十原屋號源左衛門、現代主人加藤直太郎氏所有早川谷古図」とあり、高田測候所の所長である泉末雄は『焼山火山調査』(高田測候所1933)において「湯の河内の原市左衛門へ譲り、嘉永七年寅年(西暦千八百五十四年)七月〇嚮獨學陸(本名不明)なる者が原氏より借受けて寫取せし事は記録に明記してある。其後上早川砂場の堀口喜太郎、園田市左衛門の両氏が之を仮受けて寫取し、現在両家に保存されて居る由。而して著者の所有せるものは、大正十四年頃、筒石小学校長豊田蘭治氏より貰ひしもので、之は豊田氏が西山小學校校長當時園田氏所有のものを寫取せしものである。」としていることから、同じ絵図が複数存在したことは確かであろう。また、それらを写した絵図も存在するようである。
さて、それでは誰がいつ、描いたのであろうか。前述の『焼山火山調査』(高田測候所1933)では「何人の作であるかは不明であるが、傳へらるゝ諸點を綜合するに、早川村宮平剣神社の神官某が作りしもの」としている。これは決定的な証拠にはならないが、写真のようにこの絵図では鉾ケ岳の麓に記された佐多神社が早川谷唯一の神社として描かれ、宮平の剣神社では佐多神社から改名したとしている。さらに、古刹として知られる日光寺の所在した寺社村にすら寺院や神社が描かれておらず、たいへん不自然である。これらのことから「宮平剣神社の神官某」が描いた可能性は高いとみるべきであろう。
それでは、なぜこのような絵図を描いたのであろうか。直接的な証拠は見出せないが、江戸時代の時代背景や支配制度などから、次号ではこの絵図が描かれた背景を探ってみたい。(木島)
ほこんたけ通信20240810(第199号)より

