~「早川入江」伝説を探る~ その3
前回までに早川が入江になっていたとする「往古早川谷之絵図」と「上古 大彦命降臨時の国図」を紹介しました。今回は、この「往古早川谷之絵図」の細部を検証してみます。

絵図の上方には焼山の由来やその麓にあった八龍池とその決壊、入江が埋もれた山塊崩落などの事柄が表記されています。八龍池の決壊は寿永三(1184)年、仁和三(887)年と康安元(1361)年には大地震があったと記されていることから、この絵図は康安元(1361)年以降に描かれたことは明らかです。なお、仁和三年と康安元年の大地震は、南海トラフ地震のことで西日本一帯に甚大な被害をもたらしたことは確かで、この絵図では康安元年の地震で山が崩れて入江が埋まったとしているのです。どうなのでしょうか。

絵図に目を転じると、不動山に「此山国司館アリ」と記されています。越後の国府は高田平野の関川右岸にあったことから、早川谷に国司館があったはずはありません。『上早川村勢要覧』(上早川村役場1952)では、郡司館の誤記ではないかとしていますが、頚城郡衙は妙高市栗原に所在したことから、この誤りは意図的です。恐らく、「国司」なる官職が有名無実になった時代に記載された可能性を指摘できます。
絵図には「角間」4棟、「寺社村」6棟、「大平地」3棟、「京田」12棟、東海あたりに3棟の家屋が描かれています。古代・中世の早川谷であれば、この他にも集落が存在したことは確かで、不動山の麓には「越」、田屋付近にも集落が存在したはずです。もちろん古刹である日光寺も描かれていません。鉾ケ岳の佐多神社と国司館の麓に位置する12戸から成る京田が早川谷の中心であったように描かれているかのようです。
これらの年号、描かれた集落、意図的な誤りなどから、中世以降の近世、江戸時代になって作為的に描かれた絵図である印象を強く感じます。(木島)
ほこんたけ通信20240710(第197号)より

