上早川の歴史と伝説 その85

以前、「早川が入江になっていた」伝説あるいはそれに関連した資料を取り上げたことがあります。この伝説、いつ頃、誰が、何のために創作したのでしょうか。改めて探ってみたいと思います。

往古早川谷之絵図 (谷根村樋口八郎右衛門所蔵の絵図を十分の一で写したもの)

西頸城教育会が昭和12(1937)年に刊行した『新潟県西頸城郡郷土誌稿』第1輯『口碑伝説篇』第2冊に採録された「八龍淵の主」、「土塩その他」、「早川の名」などに「早川谷が入江になっていた」とあり、これを復刻した『西頸城の伝説』(昭和53年)でも確認することができます。
〇八龍淵の主…「上早川村字音坂邊までも、大昔は海が湾入していた。……」
〇土塩その他…「上早川村字土塩は、昔海が此處まで入り込んでいた頃、塩を採った所である。……」
〇早川の名…「早川谷は、昔は字宮平の邊まで、海がくひ込んでいたという。……」

また、上早川村が昭和28(1953)年に刊行した『上早川村勢要覧』には写真のような絵図の写を添付して、「郷土の歴史篇」ではこれらの絵図が事実であったかのように言及しています。さらに、糸魚川市の市制30周年記念誌である『われら〝いといがわ〟大家族‐明日にむかって‐』(昭和59年)の「上早川村の沿革」においては、北山発電所の隧道工事で発見された「貝塚の貝」あるいは「土塩」、「東海」などの地名を根拠として「早川入江」を紹介しているのです。

しかし、土塩・音坂は標高180m、宮平は標高140mを測ることから、そこまで海が入り込んでいたことになると、当時の海面は現在より150mほど上昇していたか、あるいは陸地が150mも隆起したことになります。人類が日本列島に移り住み始めた15万年前から今日まで、これほどの海面上昇や陸地の隆起がありませんでした。どう考えてもおかしな話です。

次回からは、この伝説に関わる「貝塚の貝」、「海や塩のつく地名」などといったキーワードを確認しながら、この伝説の背景を探ってみたいと思います。(木島)