早川谷の村々 伴家文書より
早川谷の大肝煎を務めた斉藤家(伴家)も地滑りにより不動山山麓から退避を余儀なくされました。その際に多くの記録類は失われたものと推察されますが、辛うじて難を逃れた文書類1,623点は現在糸魚川歴史民俗資料館に収蔵されています。この文書類にはこれまでに紹介した境界争いや新田開発などの経緯を示す古文書の他に絵図なども多く含まれます。
ここに示した絵図は西浜(有間川~名立~能生~糸魚川~青海~市振)一帯の集落の配置図で、作成年は不明ながら「中川原新田」や「笹倉新田」が描かれていることから江戸中期、17世紀末以降の作と思われます。この一帯の主な集落はもちろん越中との境である市振、松本街道を遡った今井虫川、根知山口には柵に囲まれた建物、関所あるいは番所、糸魚川宿には天津神社、能生宿には白山神社なども描かれています。
さて、早川谷に注目すると早川右岸には「大東海村」、「小東海村」、「東越村」「西越村」、「谷内越村」、「大越村」、「宮平村」、「中野村」、「中林村」、「坪野村」、「西土塩村」、「東土塩村」、「猿倉村」、「吹原村」、「土倉村」、「中川原新田」、「大平村」、左岸には「堀切村」、「上覚村」、「川原村」、「新町村」、「谷内村」、「滝川原村」、「清水山村」、「下出村」、「上出村」、「谷根村」、「五十原村」、「西塚村」、「東塚村」、「角間村」、「北山村」、「砂場村」、「笹倉新田」といった集落が点在しています。全ての集落が描かれたどうかは解りませんが、これらの集落は比較的大きな集落であったことは間違いないのでしょう。大半の集落は現在も継承されていますが、統合や消滅した集落も散見できます。なかでも不動山の山麓には幾つもの「越村」が存在したことが解り、現在の状況と大きく異なります。こうした絵図を観ると、上杉家と強い絆を誇った山本寺氏の居城である不動山城がこうした集落によって支えられていたことが解ります。(木島)
ほこんたけ通信20220710(第151号)より