上早川の歴史と伝説 その63

新田開発の願い(伴是福家文書より)

前回は山争いの一例を紹介しました。今回は中川原台地の新田開発に関わる古文書を紹介します。

伴是福家文書・斉藤仁左衛門新田開発願
糸魚川歴史民俗資料館蔵

戦乱が治まり、泰平の江戸時代になると人口も増え、食糧の増産が必要になりました。また、当時は貨幣経済ではありましたが、各藩の財政は年貢米によって賄われ、米の取れ高によって藩の財政は大きく変動しました。そのため、各藩は新しい水田の開発を積極的に行ったのです。各地の「〇〇新田」なる集落はその名残です。

写真の古文書「斉藤仁左衛門新田開発願」はまさにこの頃の早川谷における新田開発の経緯を物語るもので、万治四(1661)年に早川谷の大肝煎である伴家・斎藤仁左衛門が新田開発を高田藩に願い出たものです。その概要は「高田の刀屋勘兵衛が高田藩に中川原台地の新田開発を願い出たことから、斎藤仁左衛門がこれに異議を唱え、砂場・北山・土倉・大平の村々の前に芝野が広がり、そこを坪野・土塩・猿倉・吹原・大平・土倉が馬の放牧場としていたことから、高田の者に新田開発されるとこの六ヶ村は大変迷惑を被るのことになります。どうか私(斉藤仁左衛門)に新田開発を命じて下さい」とあります。

焼山の火砕流によって形成された芝野原の中川原台地に水田を切り開くには、土壌改良はもちろん早川から用水を引く必要があり、相当の事業費を要したものと容易に想定できます。これを見込み、覚悟しての願い出であると思われ、大肝煎斉藤家の財力と勢いを読み取れます。さらに上早川における村々の様子を窺い知れる貴重な史料といえるでしょう。(木島)

ほこんたけ通信20220410(第145号)より