早川の大肝煎・斉藤(伴)家の成立
これまで不動山城主の山本寺氏について数回に渡って紹介してきました。今回からは不動山城下に入植し、大きな勢力を有するようになった伴家(後の斉藤家)について紹介します。
この伴家とは江戸期に早川の高田藩領と幕府領の大肝煎を世襲した斉藤家のことで、近江国(滋賀県)甲賀郡伴谷から早川に入植したと伝わります。その時期は定かではないが、伴家がかつて所蔵した古文書には永正3(1506)年は早川谷において金銭の貸し借りがあったことを示しており、それ以前に土着していたことは間違いないようです。
伴家は上杉謙信の重臣である刈羽郡赤田城主斎藤下野守朝信との親戚関係によって「斉藤」を名乗るようになったと伝わり、不動山城主山本寺景長にも娘を嫁がせて確固たる地盤を作っていったようです。糸魚川歴史民俗資料館の伴是福家文書にある『経田永付帳』には52人の土地所有者が登録され、伴家は最多の田畑を有していることから、山本寺家と関係を強め、経田(京田)村(現在の上早川地区)を総括する土豪的存在であったようです。
江戸時代には斉藤を名乗っていましたが、明治になると「伴」に戻し、昭和15年の地滑りで家財等を失い、昭和40年からは上刈に居住するようになりました。県立糸魚川高校事務長、糸魚川歴史民俗資料館館長などを務めた伴家59代当主の是福氏は平成8年に亡くなるまで同家の古文書等の整理に熱心に取り組んでおられました。これらの古文書は平成15年に糸魚川市に寄贈され、糸魚川歴史民俗資料館に所蔵されています。その点数は約1600点にもおよび中世末期から江戸、明治に至る早川の歴史を語る重要な古文書を散見できます。(木島)
ほこんたけ通信20211210(第138号)より