不動山城の城主(その3) 山本寺定長
前回紹介した不動山城主の山本寺貞景が越中に敗走した時、その子定景は6歳であったらしく、貞景の家来に育てられたようです。定景はやがて長尾為景(謙信の父)に見いだされ、為景の妹を嫁にして不動山城主に返り咲いたようです。元々、越後国守護の上杉氏と姻戚で結ばれ、ここで越後国の実行支配者である守護代の長尾家とも結ばれたことになったのです。
定景はもちろん、その子定長も謙信と信玄の度重なる川中島の合戦での武勇が伝わり『北越軍談』では「定長は新発田長敦らとともに春日弾正の備えに突っ込み、散々に武田軍を蹴散らし、味方を救出した」と記しています。また、永禄二(1559)年に謙信が上洛を果たして帰国した際の儀式の記録である『侍衆御太刀之次第』では第三位に定長の名が記されています。そして、元亀元(1570)年、越後(上杉氏)と相模(北条氏)の同盟による人質として越後に送られた北条氏康の八男氏秀が謙信の養子となって景虎を名乗ると定長はその守役を命ぜられたのです。これが定長の運命を大きく変えることになりました。
謙信の死後、謙信の甥である景勝と謙信の養子である景虎が後継を争う、いわゆる「御館の乱」が勃発しました。定長は景虎の守役であったことから景虎に味方し、景勝軍と敵対、鮫ケ尾城(妙高市・国史跡)での景虎の自刃により定長も越後を出奔しました。不動山城は景勝に加勢した定長の弟である孝長が継ぐことになったのです。
このような兄弟で別の親方に味方した事例は多くあります。戦国末期の豊臣vs徳川の対立に真田一門が親兄弟で別々に味方し、真田家の継承につながったことはよく知られています。不動山城主である山本寺家もこの定長と孝長の判断によって代々の上杉家当主に使える高家としての役目を継承することができたのです。 (木島)
ほこんたけ通信20211010(第134号)より