上早川の歴史と伝説(その48)

~奈良龍用水~

前回紹介した東側用水の麓に開削されたのが奈良龍用水です。かつては湯川内、猪平、岩倉、大平、寒谷、吹原の水田を潤していましたが、現在では役目を終えています。この用水については、大平と土倉の間の県道沿いに石碑が建つことから、この碑文でその概要を紹介することにします。

石碑はこの用水開削に尽力した作太郎と治左ヱ門の偉業を後世に伝えるため、関係する集落の諸氏より財を集め、大正九(1920)年に建立されたと刻まれています。

大平と土倉の間の県道沿い建つ「奈良龍用水碑」

碑文によると、この用水は焼山川より“奈良龍の瀧”を経て湯川内、猪平、岩倉、大平、寒谷を潤し流末は吹原に至る約12㎞の延長を持ち、最盛期には約100町歩の水田を潤し、起工は嘉永六(1853)年、安政四(1857)年に貫通したとあり、東側用水より35年ほど先行して開削されたことになります。その経緯については、雨水を頼りにした水田は旱魃の度に稲が枯死することから、大平の作太郎と吹原の治左ヱ門の両氏は疎水の必要を説いたが相手にされなかったとあります。多くの村人は急峻な地形での疎水開削は不可能と判断したことでしょう。しかし、両氏は諦めずにこれを唱え続けたところ、大平、寒谷、吹原の集落が賛同し遂に工事に着手しましたが、思うように工事は進まず中止を叫ぶ者が多く出たとあります。それでも諦めることなく、工事を続行し五ヶ年を費やしてやっと完工したとあります。その後、明治二(1869)年には岩倉、土倉、猪平、湯川内も加わり、新田40町歩が開墾されています。

さて、この用水の呼称となった「奈良龍」とは何のことでしょうか。用水の経路に「奈良龍の瀧」と出てくることからこの「奈良龍」を用いたことのようです。その「奈良龍の瀧」とはどのような滝なのでしょうか。昭和28年発行の『上早川村勢要覧』の135ページに次のような記載があります。「~奈良龍の瀧~ 高さ四十丈幅二間三尺、峻岩の中間より下る流勢中空より落ちて霧を起し、方二十間に至るも尚センセンとして雨の下るが如し、小倉川にありて約八百米下流に注ぐところ焼川(一の倉川)と合流し早川の本流となる。」

いずれにしても、江戸時代末期に成し遂げた用水開削であり発案者はもちろん財源を投じた関係者と工事従事者の苦心と苦労の賜物であり、当地の稲作への強い執着を改めて感じさせます。そして、こうした上早川の開墾史が刻まれた碑を現代の後世に伝えてくれていることに感謝したいものです。

ほこんたけ通信20201010(第111号)より