~花見の歴史~
4月といえば、「花見」です。この「花見」はいつ頃から始まり、どのような意味があるのでしょうか。

※令和6年4月撮影
「花見」は春の訪れを寿ぐ日本古来の風習とされ、中国の影響を受けた奈良時代の貴族の風習が起源とされます。もちろん、花を愛でる心はもっと古くからあったものと容易に想像できますが、奈良時代の貴族たちは「梅」の花と香りを愛でたようです。『万葉集』には110首もの梅や梅花の宴を詠んだ歌がありますが、平安時代の『古今和歌集』になると梅は18首、桜は70首となり、愛でる花は梅から桜に変化したようです。さらに、女性の美貌を桜に例えるのも平安時代の頃からのようで、『源氏物語』には「花宴」といった言葉を散見でき、11世紀後半に成立したとされる日本最古の庭園書『作庭記』には「庭に花(桜)の木を植えるべし」とあります。
鎌倉時代になると花見は武士達にも好まれ、地方にも広まったようで、江戸時代になると庶民にも大いに広まりました。天海僧正によって忍岡(現在の上野公園・寛永寺)に桜が植えられ名所となりましたが、格式の高い寛永寺に庶民は近づき難いことから、八代将軍吉宗によって浅草(東京都隅田川)、飛鳥山(東京都北区)、御殿山などに桜が植えられ花見の名所となったそうです。
また、農民の間では桜の木は山から下りてきた田の神様が宿る場所とされ、五穀豊穣を願い、田仕事の目安としてご馳走を持ち寄って田の神様をもてなしたのが起源のようです。
花見にはお酒とご馳走が付き物ですが、奈良・平安時代は梅や桜の下で花を愛でながら歌を詠むのが花見でした。やがて、庶民に花見が広まるとご馳走などを弁当に詰めて持ち寄るようになり、江戸後期になるとその料理本や花見弁当の献立なども考案されました。今では、桜の木の下でお酒を飲んでご馳走を食べ、乱痴気騒ぎもご愛敬となっています。
上早川にも市の天然記念物に指定された砂場の旧善正寺境内裏の「善正寺のシダレサクラ」や東塚の浄法寺の「浄法寺の乳母桜」といった桜の巨木があります。改めて桜の花を愛でながら春の訪れを寿ぎたいものです。(木)
ほこんたけ通信20250425(第214号)より

