~「早川入江」伝説を探る~ その6
「往古早川谷之絵図」創作の背景と普及
これまで、早川入江伝説に纏わる関係資料を紹介し、そうした伝説が創作された背景を探ってきました。ここでは、そうした創作図が描かれた歴史的背景と伝説の広がりを確認しておきます。

江戸時代、早川谷には糸魚川藩、高田藩、田沼藩などの領地が混在していました。つまり、隣村は別の藩の支配地であったのです。さらに、建築材、燃料(炭・薪)、家畜の餌、田畑の肥料などを調達できる山林は魅力的な土地でした。このため、各村はその村境を主張し、山林の所有を目指したことから、各藩は境界争いの裁判を数多く抱えることになりました。
各村は土地所有の根拠となる絵図や文書によって有利に進めようとしたのです。寺社や古くからの地主などといった当時の知識人にそうした創作を依頼したようです。もちろん、各寺社などは自身の格式を上げるためにもその由緒も創作しています。こうした背景をもとに様々な絵図が創作され、恐らく「往古早川谷之絵図」も社格とこれを支える村の由緒を主張するために描かれた可能性があります。
一方、江戸時代も後期になると文字の読み書きは農民まで普及し、僧侶、神官、地主、商家などといった知識人には国学に傾倒して古いことに興味を持つ「好古者」などが多かったようです。越後には江戸で人気の平田国学の門下生が多く、西頚城郡には高田城下を含めた東頚城郡に匹敵する門下生の数であったようです(伊東多三郎1952)。平田国学の門下生は『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などを読みこなし、郷土の歴史、大地の成り立ちにも強い関心を示したのです。もちろん、以前紹介した長岡の医師丸山元純が執筆した『北越風土記節解』なども熟読していたことでしょう。

真しやかに描かれた絵図はこうした知識人・好古者に支持され、共有されて広がったようです。もちろん、知り得た知識は教えたくなり、時間を要することなく広まったことでしょう。早川谷の小中学校で教師が児童・生徒に教え、家では祖父母が孫に伝えたのです。西頚城郡教育会が編集・発行した『西頚城郡誌』(1930)においては『北越風土記節解』(1897)に記された絵図とほぼ同じように谷々が入江になっていたと記しています。さらに、『上早川村勢要覧』(上早川村役場1952)では早川谷が入江になっていたことを史実のように記載しています。まさに、教育界と行政が全くの創作話を史実にしてしまった、たいへん恐ろしい瞬間なのです。(木島)
【参考文献】伊東多三郎1952「越後の国学」『越佐研究』1 新潟県人文研究会
ほこんたけ通信20241010(第203号)より

