昭和33年8月1日発行の北部青年団会報№9の7頁より

私は農家の長男として生れて来た。長男の犠牲は自分の為か人の為か。高校進学の夢も百性の長男故に強い反対を受けて断念せざるを得なかった。私だって百姓の生活なんて好かんではいないけど結局長男と云う一言に引受けざるを得なかった。

学校を卒業したばかりの自分に若い希望や理想があってもその光は失われ、それどころか人生のコース選択まで奪われていく。一生その土地に束縛されて長男は仕事第一と示されて自分の生活も欲望も家の都合でおさえられたり削られたりする事、私は不満でならないからだ。それでも私はいろんな犠牲をやりきれないと思いつつも結局長男意識に引きずられて、百姓として生きていくことを決心したのでした。

卒業して一年二年は夢の間に過ぎ明けて昭和二十六年農耕の全責任のバトンは自分に渡された。(家庭の都合で)若い二十歳に足りない私は急に大人のような感じを受けると同時に自分の心には不安な気持は湧き起って来た。鎌一つ鍬一丁使う事からよく知らない私でしたから不安な気持ちで消え去らないのにもう苗代の時期になってしまったので恐る恐る水苗代百坪を作り百姓のスタートを切った。仕事も周囲の人たちの指導や協同で順調に進みました。一番除草に入って間もない頃私の圃場に舞い込み、いもち激発型の病斑が現れて居たのです。何も知らない私は外の作業に励んでいると、ある時A氏が私にお前あそこの田圃にいもちが発生しているのを知っているのかと尋ねましたが、私は知らないとはっきり答えました。するとA氏は丁寧に消毒方法を教えてくれました。

教えて頂くようにやったがすでに手当が遅れた為遂にその労力・努力のかいもなく一反歩台なしの状態になってしまった。少なくとも米にして八俵は収穫できるのにと思いつつ私は心の中で泣いていました。

他の人は豊作の波に乗って大きな収穫を予期」しているのに私だけ淋しい秋を迎えるのかと思う小さい我胸が益々苦しく成ってたまりませんでした。

その田圃をすぐ畑にしてナスを植え込みましたが普通の畑と違うか為か良く成長出来なかった。水稲共済金六千円で一反歩の収入は終 った。私は来年こそはと硬い決意を胸の中に納めた。

こうして百姓としての門出は見事失敗に終った。社会の批判は長男と云う私の一ヶ年を笑ったり、批判したり、私は農村の因襲に縛られているんじゃない。批判には負けまいと思いつつ来年度への夢を追った。

二十七年度 今年は水苗代を一部止めて保温折衷苗代を五十坪取入れた。まだ、特定の所だけにしかないので普及員の指導を得て作業に従事した。だがこれも大失敗。五十坪の苗代はデン助君の頭同様あちこちに一本こっちに一本の苗立ち出会って苗代とは言えなかった。それでも皆さんの情によって、ようやく植え付けは終わった。今年は、本田の失敗はなく無事に済んだ。

こうして失敗している私を見かねてA氏は農業の基礎知識を学ぶ事をすすめてくれた。県立上越経営専習農場の実科生の課程であった。 それは一年間二百時間であった(三十日間)の授業を受ける事なのである。一年に一ヶ月間私には、中々大変な時間だったので、すぐに直心出来ず考えていたらA氏は二度三度とこられて新時代の百姓はと色々な事を話してくれた。私は仕事と学業の両立出来ない身であり乍ら理論と実際を認識する為に入場する事を承諾した。

入場して曲りなにも所定の時間を務めて終了証を手にした時の私の喜びわ最良のものであったろう。内容は農村青に適した課題なので今度は、私から友人たちに話して彼等5・6人を承諾させて第二期生として送った。彼らも喜んで入場してくれた。そうして彼等と共に小さな農事研究会を沢成した。

同志八人の小さなグループではあるが集合等は実に面白い。農事研究会 四Hクラブなどと申せば百姓する人のグループの様に考える方が多い様ですが決してそうではないのです。農村青年の研究の場なのです。

農業の技術経営の問題は勿論やりますが農村社会の問題、日頃悩む彼等の心を打明ける場所なのです。此の彼等の集いとはクイズや民踊、ダンスは欠く事の出来ない娯楽です。こうしてレクリエーションに興ずる時はどの人の顔を見ても因襲の深い農村社会から解放された青春の喜びが溢れているようです。

時には雑談に興じる青年の夢は恋愛と結婚のただ一筋の問題しぼられて行く、まだ若い我等同志の夢は明日の農作業を思い浮かべつつ今日も分かれていく。 終