上早川の歴史と伝説 その86

前回は、早川谷が入江になっていた根拠にもなった上早川村勢要覧(1952年)に添付された絵図、『往古早川谷の絵図』の写しを紹介しました。実は、この絵図の他にも今回紹介する絵図も添付されているのです。

「大彦命降臨の国図」上早川村勢要覧(1952年)に添付

写真の絵図「大彦命降臨の国図」は、丸山元純が著した『北越風土記節解』の挿図の写しになります。丸山元純(1687~1758年)は京都で学び、郷里の三島郡で開業した江戸時代中期の医師で、全31巻から成る越後の地誌『越後名寄(こしのなよせ)』を著わしたことでも知られます。この『越後名寄』は越後国や郡の解説からはじまり、越後の山、川、神社仏閣、旧跡、関所はもちろん金鉱、伝説なども収録した越後の百科事典であり、著者の博識を如実に語っています。

絵図の大彦命(おおひこのみこと)は、第8代孝元天皇の第1皇子で、北陸制圧に派遣された四道将軍の一人です。その実在はともかく古墳時代中期の4・5世紀頃を舞台にしているとされ、この頃の早川、姫川、能生川などの流域は入江になっていたように描かれています。

もちろん、この絵図は丸山元純あるいは関係者が想像で描いたのでしょうが、昭和5年に刊行された『西頚城郡誌』(西頸城教育会)には「海抜二百尺(約60m)の所までは往時の海面なりとせば、青海湾は黒姫山麓に至る。根知湾は大野附近に至る。西海湾は田中、井澤附近に至る。早川湾は瀧川原、新町邊に至る。能生湾は中ノ口指塩邊に至る、名立湾は杉ノ瀬来馬路付近に至る。」とあり、この記述はこの絵図を参考にしている可能性があるようです。

しかし、当地の標高5~20mには縄文時代から室町時代の集落跡が数多く立地していることから、当地の有史以降において写真の絵図や西頸城郡誌の記述のような状況になったことはありません。(木島)