上早川の歴史と伝説 その84

これまで、日光寺に所在する縄文時代晩期(約2,500年前)に営まれた集落跡である細池遺跡の遺構や遺物を紹介してきました。今回は、この遺跡の特徴ともいえる〝玉作り〟を前回に続いて取り上げます。

細池遺跡の玉類とその未製品(上段:翡翠ほか・勾玉 中段:翡翠ほか・丸玉 下段:滑石・管玉)

この集落では、翡翠、軟玉、蛇紋岩、緑色石英(きつね石)、滑石といった石材を用いた玉類(装身具)の未製品(写真)が数多く出土していることから、これらを盛んに作っていたことは確かです。これらの未製品からは、原石を割って、縁を敲き潰して形を整え、前回紹介した筋砥石や内磨砥石で削り磨いて形を仕上げ、孔を開ける加工工程を復元できます。もちろん、これらの石材は早川流域には産出しないので、姫川流域や周辺の海岸で採取して集落に持ち込んだようです。

作っていた玉類の形はバラエティーに富み、Cの字状の勾玉、球状の丸玉に加え、軟らかい滑石では細長い管状の管玉なども作られていました。縄文時代晩期になるとそれまでの玉類に比べて形は小さくなり、緑色の石材を好み、複数の丸玉や管玉を紐で繋いでネックレスにしていたようで、遺体とともに埋葬された事例を各地で確認できます。

このような翡翠をはじめとした緑色の玉類を盛んに作っていた集落は、この細池遺跡の他に、旧青海町の寺地遺跡、朝日町の境A遺跡(北陸自動車道・境PA)でも確認されていることから、当地の多種多様な石材を背景とした玉作り集団の存在を予見できます。産出地が限られる石材を用いた当地の緑色の玉類は、産地限定のブランドの玉類として列島各地に供給されたのです。

金属を知らないこの時代、こうした玉類はもちろん、割れ難く、艶々した切れ味抜群の石斧を盛んに作って列島各地にこれらを供給していた当地は、まさに縄文人の憧れの地であったのです。(木島)