上早川の歴史と伝説 その80

前回から紹介している日光寺の細池遺跡では昭和47年の発掘調査において縄文時代晩期の住居跡2棟(第1・2住居跡)が確認されています。今回は、その住居跡について詳しく紹介します。

細池遺跡の竪穴住居跡(第1・2号住居跡)の平・断面図

2棟の住居跡は遺跡中央部の北に僅かに傾斜する地点で重複して確認されています。図のように第2号住居跡を切って第1住居跡が構築されていることから、第2号住居が廃棄された後に第1号住居が構築されたことになります。第1住居跡のプランはやや隅丸長方形状で、長径4.7m、短径3.9m、地山を17~30㎝ほど掘り下げて床面とし、そのほぼ中央で検出された焼土は炉跡です。各コーナー付近の4基の穴は径30㎝前後、深さ10~35㎝で柱穴の痕跡で、床面はほぼ水平で所々に硬化面を観察できています。住居跡に埋まった土から出土した土器片や石器などの時期から縄文時代晩期(約2,500年前)に廃棄された住居跡と判断されました。

このような住居は、竪穴住居と呼ばれ、茅屋根が地面まで延びる伏屋で、土間に筵あるいは毛皮などを敷き、炉を囲むように生活していたようです。発掘調査で確認できた住居跡はこの2棟だけですが、周辺では多くの土器や石器の散布を観察できることから、類似の時期、規模の住居跡がさらに点在するものと推定でき、複数の住居から成る集落が営まれていたことは確かです。このような竪穴住居跡は青海の寺地遺跡にも認められ、水保の森下遺跡、一の宮の大林遺跡などもこの時期の集落跡であると推定されています。

この縄文時代晩期(約2,500年)は寒冷期で現在より年の平均気温が2~5度低かったとされる厳しい時代です。北陸では確認できる遺跡の数も少ないことから、この時代の集落跡である細池遺跡は、非常に重要な遺跡と言え、大切に後世に伝えなければならないもののひとつです。(木島)