~左右に暴れる早川の流れ~
現在の早川と前川(湯川)は中林付近で合流していますが、『西頚城郡誌』(1930)では五十原付近で合流していたとしています。また、「歴史と伝説」のその67・68で紹介した絵図には不安定な早川の流れと川欠の痕跡が描かれていました。
ここに紹介する絵図はいずれも『伴是福家文書』所収されるもので、享保19(1734)年に描かれた写真1の「土塩村満水御入用御普請墨絵図」は土塩村付近の早川と前川(湯川)の川筋が描かれています。前川の右岸には「土塩村」とあり、早川と前川の合流地点は2箇所で、その上流の川筋に堤が描かれています。その位置関係から、上流の合流点は現在の音坂付近のようです。
写真2の絵図は安永9(1780)年の「西土塩村」付近を描いた絵図の断片で、坪野川との合流地点より上流で早川と前川の合流が描かれ、早川の川欠で生じた川筋なども描かれています。 現在の音坂付近から早川の間は整備された圃場が広がることから旧地形は失われていますが、県道の西側から市道鍵山線に沿って窪地が延び、角間川と合流した早川のその流れをやや音坂方面に向けています。現在ではその流れの先に堤防が築かれ、水神様が祀られています。写真1に描かれた堤はこの付近かもしれません。
いずれにしても、早川の流れは決して一定ではなく、中川原台地の北端の土塩・音坂から五十原・越の間で右に左に暴れたことがわかります。現在は河川改修によって安定した流れになっていますが、昨今の想定外の雨量によっては、その流れはいつ牙を剥いても不思議ではありません。(木島)
ほこんたけ通信20221110(第159号)より