上早川の歴史と伝説 その67

早川の氾濫 ~法円寺の川欠~

想定を超える豪雨に悩まされる昨今ですが、江戸時代にも降り続く大雨により早川の氾濫は度々あったようです。早川谷の大肝煎であった斉藤家(伴家)も領主の高田藩に被害を報告しなければならないことから「伴是福家文書」にはそうした報告の下書きなどを散見できます。

法円寺境内を浸食した前川と早川(文政年間)

現在の早川と前川は中林の南側で合流していますが、江戸時代はさらに下流まで並行して流れていたようです。ここにあげた中林の法円寺付近を描いた絵図にもそうような川筋が描かれています。絵図には「元禄」、「延享」、「文政」年間の境内の配置図が貼り合わせてあり、前川と早川の氾濫によって法円寺の境内が浸食された様子がうかがえます。早川と前川が中林付近で合流すると、早川本流の勢いが強く、合流地点の北東にあたる法円寺南西から中野の山間から流れ出る二反田川の出合付近を浸食したようです。

法円寺境内を浸食した前川と早川(延享年間)

なお、延享年間の氾濫は、延享4(1747)年8月19日(旧暦)に列島各地に甚大な被害をもたらした「卯之満水」と思われ、『上早川村勢要覧1952年刊』や『糸魚川市史4巻』でも取り上げられ、砂場にかつて所在した「林蔵文書」に記載された被害の状況が詳細に記載されています。いずれにしても早川の河川改修によって今では大きな水害には見舞われることはなくなりましたが、改修前の早川や前川は流域の村々に多大な被害をもたらしていたことは確かなようです。(木島)

法円寺境内を浸食した前川と早川(元禄年間)

ほこんたけ通信20220910(第155号)より