上早川の歴史と伝説 その64

新田開発の苦難(伴是福家文書より)

早川谷の大肝煎である斉藤仁左衛門による中川原台地の新田開発については、前々回の高田藩に申し出た書状をはじめこれまでも何度か紹介しました。今回はその後の新田開発の経過を示す文書を紹介します。

斉藤仁左衛門言上状

高田藩に新田開発を願い出たのは万治4(1661)年でしたが、写真の文書はその7年後の寛文8(1668)年に高田藩郡奉行に願い出た書状の控えで、次のようなことが書かれています。

「先だって、中川原を新田にしたいと願い出たところ、大平・土倉村にも吟味に入り、ついに新田開発を命じられました。そこで、人足八百人余り入れて用水の井口を上げようとしましたが、途中で抜け落ちてしまい、工事は行き詰り、断念しようとしましたが何とか成就するように言われました。そこで、橋立金山の2,500~2,600人の人足を雇って工事を進めたところもう少しで完工となりそうです。何とか、自分の代で成就させたいので、

もう少し人足を確保いただければ、やがて一定の石高を納めることができますので、見使を派遣していただきたい。これらは、一切偽りは申していません。」

このように、開発の経過や奉行とのやり取りがわかり、早川からの取水が難工事であったことと橋立金山(旧青海町橋立)にこうした難工事を成し遂げる技術者と作業員が存在したことも示しています。確かに、橋立金山に坑口から精錬所まで青海川支流に沿った断崖絶壁を約4㎞にわたって作業道と用水を築いた痕跡から土木工事に長けた技術者の存在は予見できます。

いずれにしても、大肝煎である斉藤仁左衛門の新田開発への並々ならぬ決意を読み取れ、中川原台地に水田がこうした先人たちの努力によって拓かれたことを改めて感じ取れる貴重な史料です。(木島)

ほこんたけ通信20220510(第147号)より