上早川の歴史と伝説 その59

不動山城の城主(その4) 山本寺孝長

前回は上杉景虎の守役であった不動山城主の山本寺定長が御館の乱で上杉景勝軍に敗れて敗走したことを紹介しました。今回は定長の弟で景勝側に味方した山本寺孝長の悲劇を紹介したいと思います。

山本寺孝長らが自刃した魚津城を偲ぶ記念碑(魚津市立大町小学校内)

御館の乱で勝利した景勝は上杉家を継承するとともに、それまで敵対していた甲斐・信州の領有する武田氏と同盟を結びました。一方、尾張・美濃はもちろん畿内を制圧した織田信長は四方八方にその勢力を広げ、武田氏をも滅ぼしました。さらに、信長は柴田勝家、佐々成正、前田利家らを北陸に派遣し、加賀、能登、越中と進軍、越後に迫ろうとしました。これに対し、上杉軍は天正10(1582)年5月に山本寺孝長、吉江宗信らを越中魚津城に派遣してこれに対戦しました。いわゆる「魚津城の戦い」です。

景勝は5月19日に魚津城南東の天神山城まで進軍して魚津城に迫ろうとしましたが、信濃方面や阿賀北での不穏な動きを察知して軍を引きました。これによって魚津城は孤立、防戦していた山本寺氏らは善戦空しく、柴田勝家らに取り囲まれて万事休す。6月3日、山本寺孝長ら13名の守将は城内で自刃したのです。

一方、6月2日には中国・毛利氏制圧に進軍した羽柴秀吉を支援するため近江の安土から京都の本能寺に移動していた信長は家来の明智光秀に討たれました。いわゆる「本能寺の変」です。魚津城での山本寺氏らの自刃が6月3日ですので、あと1・2日防戦できていれば柴田軍は慌てて京に引き返したことでしょう。そうなれば、山本寺氏らは自刃することもなく、上杉軍も安泰だったはずです。

たいへん不運な魚津城の戦いでしたが、山本寺孝長の遺児は林泉寺に出家、弟の勝長は後に上杉景勝らとともに、会津そして米沢に移封となり300~500石で代々、上杉家に仕えました。(木島)

ほこんたけ通信20211110(第136号)より