上早川の歴史と伝説 その57

不動山城の城主(その2) 山本寺景貞

早川谷を支配した不動山城の城主・山本寺氏の概要は、前回の紹介のとおりです。その歴代城主のなかでも、越後の実力者である長尾氏に敵対した山本寺景貞、長尾上杉氏の跡目争いである御館の乱で敗軍となった上杉景虎に組した定長、魚津城で織田・柴田軍と敵対して自刃した孝長らは悲運の城主と言えるでしょう。そこで、これら悲運の城主を紹介しておきたいと思います。

山本寺景貞らが落ちのびたと伝わる
片貝川上流左岸の平沢集落

越後国の守護である上杉房能の部下である守護代の長尾為景(上杉謙信の父)が守護の房能を討って越後を実行支配しました。上杉家から嫁をもらった山本寺景貞は討たれた上杉房能の子定実に味方したことから、長尾為景と敵対することになりました。『糸魚川市史1巻』によると不動山城は永正九(1511)年3月に長尾為景らに攻められ、何とか一月ほど持ちこたえましたが、背後からの総攻撃で遂に落城、城主の景貞は将兵20騎とともに越中に敗走したとあります。

数年前、魚津市を流れる片貝川上流の平沢集落出身の澤崎氏(元魚津市長)が、不動山城跡を訪ねるため当市の教育委員会に来られました。同氏によると、平沢集落は越後から逃げてきた山本寺氏を起源とする口承があるとのことです。確かに『片貝郷土史』(平成9年)では「山本寺景貞らは落城の夜、浦本から船で越中に向かい、翌日には経田浜(魚津市経田)に上陸し、片貝川左岸を遡上して平沢の地に至った」とする口承を紹介しています。また、「景貞らは相当の砂金を持参したようで、平沢に大きな門構えの屋敷を造り、家来も剛毅者で恐れられた」と伝えています。

この片貝川流域には平家をはじめ様々な武将の落人伝説があることから、この口碑を鵜吞みにはできませんが、上杉・長尾の軍勢はそれ以前にも越中東部の武士の援軍として何度も神通川付近まで攻め入っていることから、片貝川流域に土地勘があってもおかしくありません。 (木島)

ほこんたけ通信20210910(第132号)より