上早川の歴史と伝説 その56

不動山城の城主(その1)

平安時代末期に平清盛が太政大臣になって武家政権の世となりました。これ以降、源氏と北条氏による鎌倉幕府、足利氏の室町幕府が政治の中枢を担いましたが、領地や相続をめぐる争いが各地で起き、やがて応仁の乱などの大規模な戦乱が続き戦国時代に突入しました。この頃、「今井四郎兼平」、「禰智次郎」、「糸井河道浄次郎左衛門尉藤原安景」などといった糸魚川に関係する人物を確認できますが、早川の「不動山城」や「山本寺氏」が記録に出てくるのは永正三年(1506)年頃のようです。




伴家に伝わった『秘書 不動山由来記』
(糸魚川市歴史民俗資料館所蔵)

越後の守護上杉朝方の子朝定が「山本寺」と称したようです。永正四年(1507)に守護代の長尾為景が上杉房能を討って春日山城に入り、不動山城主の山本寺直長の子景貞は本家筋の上杉房能の子定実と組んだことから長尾為景に攻められ、景貞は越中に敗走したとされます。

敗走した景貞の子、定景はまだ六歳であったようですが家臣に養育され、その後長尾為景(謙信の実父)に見出され、為景の妹と結婚して不動山城主に返り咲いたようです。山本寺家は越後の上杉家と長尾氏の親戚になったことから厚い待遇を受けることになります。さらに『北越軍記』には弘治元年(1555)の川中島の戦いで定景の子常孝(定長)は勇猛で知られる武田軍の春日弾正の備えに突っ込んで蹴散らすほどの大活躍したようです。

この山本寺定長は元亀元年(1570)の越相同盟で北条氏康の八男氏秀が謙信の養子となって景虎を名乗るとその守役を命じられ、謙信の死後に勃発した景勝と景虎の家督争いである「御館の乱」では負けた景虎につき、越後を出奔することになりました。

こうした不動山城や山本寺氏の記載も後世に伝わる軍記物や後に早川郷の大肝煎となる伴家に伝わる怪しげな『秘書 不動山由来記』(写本)あるいは寛文九年(1669)に幕府に提出された『上杉将士書上』によるもので、信じ難い箇所も少なくありませんが、上杉氏の流れを組み、長尾氏とも親戚関係であったことは間違いないようです。(木島)

ほこんたけ通信20210810(第130号)より