上早川の歴史と伝説 その55

不動山城跡 ~城の名残と地名~

これまでに紹介したように、越後の上杉長尾氏にとって信濃と越中との境界に近い不動山城は越後を守る重要な支城であり、その堅固な守りの痕跡を随所に観察できます。さらに、城の名残は現存する地名にも色濃く残っています。

要害に祀られる六地蔵

不動山の山頂(本丸)やその下段には平坦な曲輪(削平地)が造り出され、井戸跡なども点在します。本丸から延びる尾根を断ち切るような堀切などの痕跡は山城に伴う典型的な遺構です。また、山城の麓には土塁や堀などに囲まれた方形区画の屋敷(館)跡は観察できませんが、「御殿屋敷(ごてんやしき)」、「矢倉(やぐら)」などと言った通称名が城主館であったと推定できます。もちろん集落名「要害(ようがい)」はいかにも中世山城の名残であり、他にも大字越には「不動屋敷(ふどうやしき)」、「法泉寺(ほうせんじ)」、「土橋(どばし)」、「竹ノ越(たけのこし)」といった小字、「御殿屋敷」、「槍研(やりとぎ)」、「狼煙場(のろしば)」、「馬のり場」、「犬くら」などといった通称も要害集落内に点在しています。こうした小字や通称名は後世に城の名残を誇示するために付けられたものも少なくないと思われますが、「〇〇屋敷」、「〇〇寺」、「〇〇越」などは中世山城に付きものの地名です。

「法泉寺」は前回紹介した上杉氏移封に伴って会津に移った「法泉寺」の跡と思われ、付近には御館の乱に影勝側の死者を切ったと伝わる「人切場」などといった伝承も伝わります。 不動山の麓「竹ノ越」の「竹(たけ)」は「館(たて)」が変化したものとも推測され、田屋には「立ノ内(たてのうち)」なる小字で戦国期の館跡が確認されています。「竹ノ越」は館の外といった意味になるのでしょうか。

また、城跡の名残とは言えないが、要害集落の南端には六地蔵が祀られています。六地蔵は村への疫病などの侵入を防ぐために村の出入口に安置されることが一般的です。現在の道からは離れていますが、麓の旧越、谷内などから要害に登ってくる旧道を今に伝えています。(木島)

ほこんたけ通信20210710(第128号)より