上早川の歴史と伝説 その53

不動山城跡 ~堅固な守り~

中世の城の大半は山の頂から麓にかけて築かれました。それは城の防御を最優先としたためであり、その堅固な構えを相手方に誇示するためでもあったようです。越後は守護代の経済力を背景とした絶大な武力と地形的な制約から他国からの侵略がほとんど無かったこともあって、上杉・長尾氏の居城であった春日山城(上越市)や坂戸城(南魚沼市)などを除くと大規模で堅固な山城は少ないとされています。それでは越後の西の守りを担う不動山城の防御はどのようにされていたのでしょうか。

堅堀

不動山は独立峰で西側は急流早川、東は切り立った深い谷に囲まれ、山裾も地滑り地形が顕著で広大な平坦地もなく正に天然の要害です。それに加え、本丸(山頂)までの斜面の随所に防御の痕跡を観察できます。要害集落上手の溜池から急な坂道を登ると「犬倉(いぬくら)」と呼ばれる人為的に削平された広い平坦地が広がり、登り始めると幅3m、深さ1mほどの「竪堀(たてぼり)」が次々と行く手を阻みます。さらに、等高線にそって幅3~5mほどの削平地を巡らす「帯曲輪(おびくるわ)」も随所にのこり、山頂の「本丸」下には「二の丸」その下には「三の丸」と呼ばれる大規模な削平地「曲輪」が広がり、「井戸跡」もあります。もちろん、こうした曲輪の裾は人為的に削平した「切岸(きりぎし)」と呼ばれる急崖が造り出されています。「本丸」は平坦に整地され、その南側には痩せ尾根のような「土塁(どるい)」も観察できます。山の斜面を大規模に削平して平坦地と切岸を幾重にも巡らして下方からの侵入を阻止する構えがこの城の特徴のようです。

本丸の切岸・帯曲輪

この城跡では未確認ながら長岡市片刈城跡では四方に延びる尾根の根元に100個ほどの礫が集められ、径100㎝、深さ80㎝の穴が掘られ、相手方に投げつける石礫と糞尿を溜めた穴ではないかと推定されています。戦国期の戦いは槍、刀、鉄砲が主流とされていますが、駆け登ってくる敵に大きな礫を落とし、石礫を投げつけ、糞尿をかけたりして戦意も喪失させるのは守りの常套手段であったことから、不動山城でも同様の備えがあってもおかしくありません。

いずれにしても、このような大規模な土木作業には城主であった山本寺氏配下の農民たちが動員されたものと想定でき、多くの領民に支えられた早川谷の領主、山本寺氏の経済力を物語っています。(木島)

ほこんたけ通信20210510(第124号)より