上早川の歴史と伝説 その51

~下早川の水田を潤した笹倉用水(西側用水)~

前回紹介した大山用水と交差して早川左岸の山腹を縫うように流れ、東塚、西塚、谷根、高谷根、上覚の水田を潤すのが西側(笹倉)用水です。糸魚川土地改良区のHPや県糸魚川地域振興局の資料ではその延長は18㎞、現在の受益面積は85haとされています。

日光寺観音堂境内に建つ西側用水碑

この用水は笹倉温泉から約1㎞上流の焼山川を水源として、上覚(赤沢)の溜池・マムシ池までを開削したもので笹倉用水または西側用水と呼ばれています。建設経緯の詳細などは日光寺観音堂境内に建つ「西側用水碑」に刻まれ、昭和27(1952)年刊行の『上早川村要覧』にも「笹倉用水の父」としてその概要が記載されています。

これらによると、要害の嘉兵衛なる人物が家族等に反対されながらも笹倉温泉付近の野山に分け入り苦節10年を費やして計画を策定したとされ、関係する村々を奔走したところ上覚村の有力者五十嵐久三郎らの認めるところとなり村の工事として明治22(1889)年に工事が開始されたようです。延長6里、隧道50ケ所あまり、工事費15,000円、作業員延べ27,000人を要して8年目に完工、当時の上角間、角間、砂場・北山の一部から東塚、西塚、見滝、谷根、高谷根、上覚、西谷内などで250~300町歩の水田が開削されたとあります。この用水は地滑りが頻発する急傾斜を開削したことから隧道も多く、橋立金山の技術支援があったようで、工事費の15,000円は現在の57,000,000円、実質は3億円に相当すると推定され、いかに大規模な難工事であったかを物語ります。

ところで、この工事の発案者である嘉兵衛は完工の1年前に工事見回り中に倒れて71歳の生涯を閉じ、西側用水碑にもその名は刻まれていません。早川谷を一望できる不動山城跡の麓に位置する要害に50歳になって婿入りしたそうで、上出村の庄屋善右エ門の分家庄七の二男とのことです。もちろん、上出村で稲作に従事していたでしょうから用水の必要性は十分に感じていたものと思われ、焼山から日本海までの早川左岸を一望できる要害からの景観はこの思いに火をつけたのではないでしょうか。その行動力と多年の苦労に敬意を表したい。(木島)

ほこんたけ通信20210310(第120号)より