上早川の歴史と伝説 その50

~大山用水と豊かな自然~

西山地区の水田を潤す大山用水は、焼山温泉付近で早川に合流する西尾野川上流を水源とする山腹用水です。糸魚川市土地改良区のHPや新潟県糸魚川地域振興局の資料などでは「水路延長10㎞、天保8年起工、弘化4年完工、受益面積30ha、管理人数79人」とされています。

旧善正寺境内裏手の大山用水碑

この用水建設の経緯などを刻んだ石碑は、旧善正寺境内の裏手にひっそりとたたずみ、その碑文は『上早川村勢要覧(1952年刊)』にも引用されています。それによると、弘化元(1845)年に北山で7棟が燃える大火があり、水の便が悪く十分な消火活動ができなかったそうです。そこで弘化二(1846)年に五十嵐善十郎は五十嵐久左エ門、山田治右エ門、堀口五左エ門らと謀り、新たな用水計画を村民に諮りましたが結論がでず、やむなく4名で工事に着手したそうです。その工事半ばで村民もこれに同調し、着手から四年で竣工したとあります。さらに、新たな用水により200町歩の水田が新たに開墾され、村民の飲料水・防火用水として十分な効果をもたらしたとあります。 江戸時代末期において地滑りが頻発する山腹の10㎞にも渡る水路開削はもちろんその維持管理にも多大な経費と労務を費やしたことと容易に想定できます。今では水路に沿った管理道路も整備され、車高の高い車であれば、その取水口までのアクセスも可能となりました。修繕工事の資材運搬等も比較的容易に搬入可能となりましたが、高齢化と過疎化によって受益面積・管理人数とも減少し、10㎞もの用水管理の労苦も多いものと察します。

この用水の周辺には水芭蕉の群生地をはじめ鬱蒼としたブナ林も広がり、昼闇山・鉢山・阿弥陀山・烏帽子岳が聳えるその絶景は四季折々の上早川の豊かな自然を実感させてくれます。さらに、六左エ門道路がこの急な裾野を経由して峰を越え信州小谷村へ海産物を運んだと想像すると江戸・明治の人たちの苦労と厳しい自然に立ち向かった勇気を感じることもできます。この大山用水は豊かな自然がもたらす恩恵を享受しつつも厳しい自然と対峙した私たちの祖先達の足跡を如実に物語っているようです。(木島)

ほこんたけ通信20210210(第118号)より