~中川原用水~
中川原用水は早川本流から取水して中川原台地を県道に沿って流れ、大平で粗方は排水となり、一部は「下中川原用水」となって県道とともに「ホソミ」を渡って旧上早川中学校裏で排水となります。この中川原台地を潤す「中川原用水」は、いつ頃、どのように開削されたのでしょうか。これまでに紹介した東側用水、奈良龍用水などはその開削史が石碑に刻まれていますが、中川原用水に関する記念碑は残っておらず、『上早川村勢要覧 1952年刊』にも記載されていません。
これまでにも何度か言及したとおり、焼山の度重なる噴火に伴う火砕流や土石流の堆積よって形成されたこの中川原台地は、長らく放牧地や草・柴刈り場として周辺の村に利用されていたようです。それが江戸時代の延宝元(1673)年頃に28町歩の新田開発がほぼ完成したとされ、貞享2(1685)年の天和検地では「中川原新田」が村として独立しています。もちろん、この新田開発にあたっては周辺の村々や高田藩の思惑もあり、紆余曲折したようですが、最終的には地元の大肝煎である越の斎藤仁左衛門が主体となって新田開発を進めたようです。これらの経緯は『糸魚川市史2巻』(1977年刊)の441頁前後に詳細な記述があります。
いずれにしても、新田開発で最も重要なのが水田を潤す水路開削であり、当初は橋立金山の技術者や作業員延べ2,500人を投入して早川からの取水を試みましたが失敗したようです。その後の水路開削を物語る史料はありませんが、土塩区有文書には宝暦2(1752)年「中川原□水証文之事」(『糸魚川市史 資料集1 文書編 』1986年 所収)と題した古文書には水路掘削にあたっての基本事項が記載されていることから、遅くともこの頃までには中川原用水の主要部は開削されたと思われます。
東側用水や西側用水などは途中の沢水も流入させる水田専用の山腹用水ですが、この中川原用水は全く水源の無い火山灰台地を潤し、冬季の融雪にも絶大な効果をもたらしています。上早川の生活はこの用水とともに歩んできたとも言え、これからも末永く住民みんなで付き合っていかなければならない用水です。(木島)
ほこんたけ通信20201210(第115号)より