上早川の歴史と伝説(その47)

~早川右岸を潤す東側用水 その2~

前号では中林の法円寺境内にある「東側用水之碑」背面の碑文を参考に、東側用水の竣工までを紹介しました。そこで、ここではその工事の測量技術や用水開削による効果などを紹介しておきます。

総延長約24㎞にも及ぶ急峻な鉾ケ岳山麓を微妙な勾配での水路開削は、どのように行われたのでしょうか。測量については、いわゆる提灯測量あるいは提灯線香測量などと呼ばれる測量技術が用いられたとされ、平成25年に有志によって復原されました。イラストのように、水を張ったタライに木製の見通し具を浮かべ、遠くに見える提灯の灯を覗いて勾配を指示したようです。また、以前に紹介した明治10年代の三大疎水工事などでは欧州から輸入した水準器を日本人が使いこなしていました。その背景には江戸時代後期の伊能忠敬らによる精密な列島地図でも解るように和算を駆使した日本の測量技術の高さがあります。そして、列島を網羅する鉄道敷設はそのレベルを格段に高めたことから、明治20年代の土木工事にこうした新しい測量技術が利用されていたとしてもおかしくありません。

いずれにしても用水開削によって、それまでの古田約100haに加え、開削直後には70ha、明治45年までには約85haの新たな開田があったようで、用水開削は大きな効果をもたらしました。江戸後期の宝暦頃の日本の人口は約3,100万人、それが明治5年には5,100万人と増え、明治20年頃までは毎年20~30万人、明治20~30年頃は毎年50万人もの人口増でした。主食である米の増産は国の喫緊の課題であったと想定でき、米の需要に呼応したこの東側用水も大きな効果があったことは確かなようです。

しかし、第三紀層の急峻地であることから、地滑りや雪崩などが随所で発生したものと容易に想定でき、その維持管理もたいへんであったようです。遂に昭和17年には取水口から寒谷の大知川までの間を隧道にする工事が始まり、戦中・戦後と断続され昭和25年には竣工、延長16㎞の開渠が6㎞のトンネル直線水路に短縮されました。その後も様々な災害に見舞われ大改修が続いたことから、遂には下流の奈良瀧用水の取水口を改修、拡大して東側用水に合流させて現在に至っています。(木島)

ほこんたけ通信20201010(第111号)より