~早川右岸を潤す東側用水 その1~
以前、紹介したように加賀・富山藩と高田藩の間に位置する西浜(現在の糸魚川市・上越市名立区)は糸魚川藩・高田藩・幕府・伊勢神宮等の領地が混在していました。さらに、早川谷はこれに田沼藩領が加わり、複雑な支配が続いていたのです。もちろん糸魚川藩の領地は多いのですが石高1万石と弱小で殿様も江戸詰めで現地は代官の支配でした。このように川の両岸や隣村の支配が異なることから、江戸時代前期に高田藩が行った上江用水(正保年間1645年前後)や中江用水(延宝年間1675年前後)といった大規模な農地整備はできませんでした。もちろん、糸魚川の急峻な地形も大きな阻害要因でした。
これが明治になると新政府によって国の近代化と富国強兵が図られ、人口増加と食料増産は必須の策となりました。このため、国のあちこちで大規模な農地整備が進められ、日本三大疎水とされ、広大な農地を潤した琵琶湖疎水(明治18年着手)、安積疎水(明治12年着手)、那須疎水(明治18年着手)はその好例と言えるでしょう。早川谷でも新たな水田開発とより安定した水の確保のための東側用水、笹倉用水(西側用水)などの山腹用水の難工事が突貫されたのです。
東側用水は火打山川を水源として早川右岸の山腹を縫うように通して麓の水田を潤す現役の用水で、現在は要害を末端としていますが、一時は東海まで通水していました。その経緯や用水の概要は中林の法円寺境内に建つ明治43(1910)年9月建立の「東側用水之碑」に詳しく刻まれています。これによると、旱魃の度に苦しむ現状を憂い、明治12(1879)年に大平、吹原、猿倉の面々が発案して工事を始めましたが、あまりの難工事で実現できなかったようです。その後、早川谷の肝煎である斎藤家や伴家はもちろん、坪野、中林、宮平、越も新たな発起人となって事業が具体的に進んだとされ、次のような面々の名が刻まれています。
【発案者】渡辺重次郎、近藤源造、小竹清造、恩田作太郎
【発起人】大島二ノ吉、山本惣五郎、五十嵐七蔵、大島伊平治、渡邊善次郎、石塚五四郎、高瀬興次郎、高瀬定吉、渡辺井平、竹島長八、渡邊仁太郎、近喰仁太郎、近藤斉三郎、恩田栄蔵、恩田松太郎、恩田彌与造
明治23(1890)年に延長約24㎞の開削工事に着手、明治25(1892)年10月に富山県笹川の長井助八の監督によって、総額3,600円で竣工したそうです。ちなみに明治は貨幣価値が大きく変動した時代で当時の1円は現在の3,800~20,000円に相当するようです。この工事費をみても、いかに大工事であったかを物語っています。その後、明治32(1899)年には中野、土塩、岩本、要害、東海もこれに加わり、明治38(1905)年には東海まで延長し、早川東側(右岸)一円の水田を潤すこととなったのです。(木島)
ほこんたけ通信20200910(第109号)より