上早川の歴史と伝説 (その44)

~度重なる洪水と早川の河川改修~

平成7(1995)年7月11日、梅雨前線の停滞による大雨は各地に甚大な被害をもたらしました。特に、姫川上流の新潟・富山・長野県の県境付近では11日、12日の雨量が400㎜を超え、国道148号線はもちろん大糸線も濁流に呑まれ、小滝地区は孤立、その復旧には長い時間を要しました。梅雨終盤の7月から台風がおさまる10月までは洪水や土砂崩れに警戒しなければならない季節です。

土塩で40分の1、梶屋敷で80分の1の勾配を測る早川も姫川に負けない急流河川で、これまでも洪水を繰り返してきました。以前に紹介した延享4(1747)年「卯年の満水」はもちろん、1952年刊の『上早川村勢要覧』には明和3(1766)年、天明3(1783)年、天明5(1785)年、寛政元(1789)年、寛政2(1790)年、天保4(1833)年、天保7(1836)年、明治元(1868)年、明治29(1896)年、明治30(1897)年は特に酷かったと記載されています。もちろん昭和になっても洪水の被害は続き、昭和40(1965)年9月17・18日に通過した台風24号は砂場に322㎜の雨量をもたらし、上早川86棟、下早川157棟の建物が被災したと記録されています(『糸魚川市史昭和編2』)。

改修後60年を過ぎた早川護岸

早川はこうした洪水はもちろん、これに連動した地滑りや焼山噴火による泥流も伴う厄介な河川で、昭和24(1949)年や昭和49(1974)年の泥流災害は記憶に新しいところでしょう。こうした災害もあり、早川の河川改修は早川流域住民の悲願でもありました。先の泥流災害を契機に昭和24(1949)年に「焼山対策協議会(委員長:渡辺喜與松 上早川村長)」が組織され、その後「早川期成同盟会(会長:斎藤精二)」結成に発展、河川全体の整備計画の必要性が唱えられました。昭和29(1954)年4月には河川改修工事も認可され、昭和35(1960)年3月末に総延長13,000m、延べ工事作業員65万人に及ぶ河川改修工事は完了したのです。早川の氾濫を治めるともに流域住民にも大きな経済効果をもたらしたようです。

いずれにしても、最近は異常気象の影響もあるのでしょうか、雨の降り方は尋常ではありません。雨の季節に対応した備えを心がけましょう。歴史は繰り返します。 (木島)

ほこんたけ通信20200710(第105号)より