上早川の歴史と伝説 (その43)

焼山噴火史 ~遺跡が少ない早川谷~

焼山火山の誕生は縄文時代後期の約3,000年前、約3,500年前とも言われています。この年代は中川原台地に埋もれた炭化木の放射性炭素(C14)年代測定によって導き出されたことが、『糸魚川市史』1や妙高市在住で妙高火山群研究の第一人者で知られる早津博士の著作などで確認できます。もちろん、昭和50年代の放射性炭素による年代測定であることから最新の年代測定法に比べれば測定誤差は予見できますが3,000~3,500年前とした年代は大きく変わらないようです。

さて、5,000年前頃から糸魚川地方では磨製石斧と翡翠製品の盛んな加工と流通を背景に、人口が増えたことが確認できています。六反田南遺跡(大和川)、入山遺跡(真光寺)、長者ケ原遺跡(一の宮)、岩木遺跡(岩木)、寺地遺跡(寺地)、井上遺跡(能生)といった遺跡はこのことを物語っています。なかでも長者ケ原遺跡は北陸屈指の集落規模を誇り、東北、信濃、北陸西部、関東との交流を示す資料が豊富なことでも知られます。一方、早川の流域面積を考慮すると複数の大規模な縄文集落を想定できますが、約3,000年前の細池遺跡(滝川原)しか確認できていません。また、角間では縄文土器の破片、五十原では石斧、要害では黒曜石の破片などの出土を確認できますが、集落跡としては認定できません。

そこで、早川谷の主要遺跡(集落、館、城)数を周辺地域と比較すると表のように圧倒的に少ないことが解ります。なぜ、このようなことになったのでしょうか。集落を営める環境では無かったのでしょうか。それとも、何らかの理由で集落跡が確認できないのでしょうか。 前回までに紹介したような短時間にあれだけの火砕流・土石流堆積物に飲み込まれたとしたら、麓の集落跡の痕跡はどうなるでしょうか。しかも北陸自動車道建設に伴う立ノ内遺跡(田屋)の発掘調査では戦国期の館跡、国道8号東バイパス建設に伴う岩倉遺跡(梶屋敷)の調査では江戸時代の寺院跡などが火砕流堆積物の上に確認できていることから、それ以前の焼山の火砕流は海岸付近まで到達していたことは間違いないようです。

焼山の度重なる噴火と火砕流・土石流は、早川流域に壊滅的な打撃をもたらしたことは容易に想定でき、流域に存在したであろう集落の痕跡をも消滅させたのではないかと考えられているのです。(木島)

ほこんたけ通信20200610(第103号)より