上早川の歴史と伝説 (その三十九)

山の恵み~再び温泉~

前々回の「宮平の湯」は伝承のような話でしたが、今回は昭和二十八年刊行の『上早川村勢要覧』に記載された「宮立湯」と「嘉右エ門湯」を紹介します。
「宮立湯」は湯川内より約四.五キロメートル、焼山山麓の池の平に五十原の加藤彦四郎によって明治十年に開湯しています。年間五百人程度の入湯者で賑わったそうですが、豪雪などの影響で次第に衰退したとされています。源泉は「トヨノ谷」を渡った対岸で、昭和二十八年当時は熱泉が湧出していたようです。「嘉右エ門湯」は湯川内の「川入り」に明治末期まであったらしく、外傷・火傷などに効くとされて大いに賑わっていたそうです。

【宮立湯があった焼山麓の池の平】

この湯にも、乞食風の客の宿泊を断ったところ「万人を救うごとき霊泉に非人なるをもって断るは何事ぞ、しからば冷泉に」と言い残して立ち去り、翌日から冷泉になったとされる。人道を外れた対応によって熱泉が冷泉になったとされる「宮平の湯」と類似の伝承が伝わります。冷泉になった後も薪を焚いて続けていたようですが、中川原台地の開墾の進行とともに湯川内の集落も現在地に移り、嘉右エ門も湯を閉めたとされます。「山の恵み」としてこれまでに紹介した木材、木炭、硫黄などは、社会や生活様式の変化に伴ってその価値を失い、上早川の過疎・高齢・少子化に拍車をかけ、その進行は現在も止まっていません。

一方、山の恵みである温泉は、上早川の地域振興に大いに貢献する可能性をもっています。ストレスの多い現代社会において温泉や森林での癒しはその解消に欠かせないアイテムとされ、今後の利用者は増加すると予想されています。上早川は、こうした複数の泉源と豊かな森林といった資源に恵まれていることは確かです。(木島)

ほこ通20191210(第92号)より