上早川の歴史と伝説 (その三十五)

山の恵み ~硫黄(いおう)~

木材や木炭を上早川の山の恵みとして紹介してきました。今回は上早川ならではの特産品を紹介します。それは、火山である焼山の恵みともいえる「硫黄」です。


硫黄は様々な生活用品の製造に必要で、古くから利用されてきました。平安時代の『続日本紀』には信濃国より朝廷に献上があったとした記載もみられます。火薬の原料として知られ、その語源(sulfur)はラテン語で「燃える石」とされているほどです。日本では鉄砲伝来によってその採掘に拍車がかかり、富国強兵を目指した明治時代はそのピークであったようです。マッチなどは、私たちの身近にある硫黄製品で、以前は薄く削った木片や樹皮を剥いだ麻や青芋(あおそ・カラムシ)の先端に硫黄を塗った「つけぎ・付け木」として用いられていました。石油の精製過程での抽出が確立した昭和三十年代になると天然硫黄やその化合物の採取は要なくなり、市内の蓮華や焼山といった採取地も忘れられてしまいました。

先端に硫黄を塗った付け木(柏崎市立博物館)

焼山の硫黄採取は、嘉永五(一八五二)年九月の噴火まで遡り、厚さ三尺、長さ十数町に及ぶ硫黄の噴出物を嘉永六・七年に二五〇人以上が採掘し、精製の釜場は六十基以上、四十万貫(一五〇〇t)を搬出したとされます。また、当時の相場では硫黄六十貫(二二五㎏)で一両(約七五〇〇〇円)、湯川内までの運搬賃は十貫(三七㎏)で四〇〇文(約四八〇〇円)であったとされます(『上早川村勢要覧 一九五二年度版』)。相当の稼ぎになったことから、上早川だけでなく、西海、能生、根知、中頸城からも押しかけ、明治八年前後には信州方面への新道も開削されたとのことです。

この硫黄の採掘はいつ頃まで続いたのでしょうか。今でも山頂近くに残る釜跡や鉄鍋などは、往時の面影とそれに従事した人々の逞しさを物語ります。(木島)

ほこ通20190810(第84号)より