上早川の歴史と伝説 (その三十三)

「山の恵み」 ~大火と早川の木材~

水資源に恵まれた上早川は稲作が盛んです。しかし、斜面地に築かれ水田が多く、用水の維持、土手の草刈など決して恵まれた稲作環境とは言い難いようです。一方、西頸城山地の山裾には豊かな山林が広がり、温泉が湧き、多種多様な山菜の採取も比較的容易です。かつては、炭焼きや硫黄採取なども盛んであったと聞きます。そこで、上早川の人々の生活と山の恵みの関係を数回に渡って探ってみます。

平成二十八年十二月の一四七棟を焼き尽くした糸魚川駅北大火は、密集した市街地での火災の恐ろしさを示しました。糸魚川宿では江戸時代の享保二〇(一八一六)年以降、五十棟以上の火災は十五回を数え、文化一三(一八一六)年には七四四棟、昭和になっても三年に一〇五棟、七年に三六八棟を焼き尽くしています。

昭和七年の大火で被災した痕跡 (相馬御風宅・土蔵屋根裏)

こうした大火とその復興の繰り返しは糸魚川に限らず梶屋敷や新町でもあったことでしょう。もちろん、その後の復興には大量の木材が必要になることは容易に想像でき、そうした木材は遠方からも運び込まれたでしょうが、大半は近隣の早川、姫川、西海、能生の谷から調達されたと予想できます。昭和五〇年代まで各所で営まれた製材所はそうした名残であったともいえます。

古くから都市の造営と発展には水と森林が必須といわれ、エジプトやメソポタミアといった古代文明も森林破壊によって滅びています。焼山の噴火と火砕流や土石流によって壊滅的なダメージを被りながらも、上早川に人々が住み続けた背景には、特需とも言える木材の需要があったものと思われます。糸魚川の町と周辺の農村はそうした需要と供給で成り立っていたことは確かです。 (木島)

ほこ通20190610(第80号)より