「早川入江説」の検証 ~遺跡の立地~
糸魚川市内には二八〇箇所の遺跡が確認されていますが、早川谷には十箇所前後しか所在しません。焼山噴火による火砕流や土石流に伴った厳しい環境が人の定住を阻んだものと推測されます。その数少ない遺跡やそこからの出土品は、早川入江説が成り立たない証にもなります。
北陸自動車道建設に伴って発掘された立ノ内遺跡は、標高三〇⒨前後の姥川右岸の田屋にあり、戦国期(十五・十六世紀)の大規模な建物跡から成る館跡です。さらに、出土品には古墳時代(五世紀)や縄文時代晩期(三〇〇〇年前)の土器なども混在し、これらの時期に人々が生活していたことが解ります。
月不見池の北側、滝川原には縄文時代晩期(三〇〇〇年前)の集落跡である細池遺跡が立地し盛んな翡翠の加工を確認でき、縄文時代中期初頭(五〇〇〇年前)の土器なども観察できます。この遺跡の標高は一一二⒨前後で、越川原と同じ標高を測ります。
このように早川入口の標高三十⒨の地点に縄文人の生活痕があることから、早川谷が入江説は全く怪しくなります。それでは、早川入江説の根拠となった絵図や伝承はなぜ描かれ伝えられてきたのでしょうか。恐らく、これまでに紹介した貝化石を貝塚の貝との誤認、「海」/「塩」の地名を根拠にした「昔は海だった」、焼山からの大量の土砂流入などが相まって早川谷の中/近世の知識人が、そのような景観を想像して絵図を描き、伝承が創作されたものと想定できます。そして、そうした絵図を見て、伝承を聞いた人々が「そうだったに違いない」として早川谷に広まったのでしょう。学校で教えた影響も少なくなかったことでしょう。(木島)
ほこ通20190510(第78号)より