上早川の歴史と伝説 (その三十)

「早川入江説」の検証 
   ~西尾野川のホタテの化石~

●「昔々、早川谷は音坂付近まで入江になっていた」といった伝承をご存知でしょうか。この伝承を証する絵図もあることから、学校で教わった方も多いことでしょう。結論から言うと、この伝承は誤りです。しかし、なぜこのような伝承や絵図が流布したのでしょうか。数回にわたって、この「早川入江説」とその背景を探ります。

入江説の根拠とされたのは「東海」、「西海」、「来海沢」、「土塩」といった地名と「貝塚の貝」の出土、活火山焼山の存在です。今回はこの「貝塚の貝」を確認しておきましょう。「北山発電所のトンネル工事で貝塚の貝(海の貝)が発見された」ことから、“昔は海だった”ことになったようです。それでは、「貝塚の貝」とはいかなるものでしょうか。貝塚とは縄文時代の集落跡に形成された食用貝の貝殻の堆積層で五千年前頃に形成されたものが一般的です。県内でも佐渡市と刈羽村に数か所確認されているに過ぎず市内には存在しません。一方、発電所のトンネル工事は、北山-砂場集落が乗る台地の千万年から数百万年前の堆積層を掘り抜いていることから、フォッサマグナ帯が海であった頃の貝化石の出土は容易に想定できます。

西尾野川採取のホタテ貝の化石
(千万年前 フォッサマグナミュージアム所蔵)

これに類する海の貝化石もいくつか採取されています。写真の化石は、西尾野川で採取されたもので、ホタテ貝の仲間であると容易に判別でき、千万年前と鑑定されています。このほか早川左岸の農道工事などでも同年代の二枚貝の化石が確認されています。

つまり、「貝塚の貝」とされたのは人類の遥か以前、列島の大半が海であった千万年前のもので、「貝塚の貝」ではなく、「貝化石」であったようです。(木島)

ほこ通20190310(第74号)より