上早川の歴史と伝説 (その45)

~水資源との闘い~

上早川を取り囲む焼山・火打山・鉾ケ岳・烏帽子岳・昼闇山といった高い山々は、日本海の水蒸気をたっぷり含んだ雪・雨雲の衝立となり、上早川に大量の雪と雨をもたらします。このため、この地域は豊富な水資源に恵まれています。もちろん、豊かな水源は焼山川、火打川、前川、西尾野川、大滝川や谷水が合流して滝のような早川となって日本海に注ぎ、時として洪水をもたらし甚大な被害を流域にもたらします。一方、早川の先人たちはこの豊かな水を利用して大地を潤し、豊かな実りの大地を育んできました。

稲作に必須な水を供給する用水の建設などは、水資源の典型的な利用と言えます。もちろん、急峻な地滑り地形や不毛の火砕流台地は、水資源の効果的な利用を阻んでいたことは間違いなく、用水などの建設・維持は相当の苦労であったものと想定できます。米本位の経済が発展した江戸時代になると各藩は水田開発に力を注ぎ、米の収穫倍増を図りました。各地の「〇〇新田」なる地名はまさにこの頃に開発された水田と集落で「中川原新田」はその典型と言えます。牧場(まきば)であった中川原台地での水田開発は「その10」で紹介したとおり様々な資本投入の紆余曲折があったようですが、用水の建設が大きなポイントとなり、天和3(1683)年の検知では81石強の記載を確認できます。

この他、早川流域には豊富な水資源を地域開発に活かそうとして多難な土木工事を成し遂げた痕跡を随所で確認できます。右岸の急傾斜地を潤す「東側用水」、左岸の水田を潤す「西側用水」、西山の水田を潤し防火用水でもあった「大山用水」といった山腹用水などは、まさに当地の先人たちの残した土木遺産とも言えるでしょう。こうした困難な土木工事は明治政府による新たな国づくりの基盤となる食糧増産政策にも後押しされたものとも言えますが、早川の水田開発にかける先人たちの執念とその苦難を物語っています。そこで、こうした用水建設に纏わる先人たちの足跡を次号から数回に渡って紹介します。(木島)

ほこんたけ通信20200807(第107号)より